archive

2017年3月14日

内藤明個展「echo」

展覧会概要 レリーズの衝動。途絶えぬ耳鳴りのなかで妙なる響きを捉える。飛来していた光の粒が銀の粒子になるとき、あの時以上に神経を沸き立たせる調べ。長い間次なる響きを求め彷徨っている。この繰返し。 -内藤 明 ===  銀塩写真において、フィルム上に形成される像とは、被写体に触れた光に他ならない。そして、ネガポジ法のプリントプロセスにおいては、そのフィルムを透過した光により印画紙上に像が現れる。印画を見る私たちに届く光は、かつてここではない場所で被写体に触れた光とどのような関係があるのだろうか。さまざまな物質に媒介されながら光を遠くへと届けようとすること。写真の記録性とは、写真自体に深く刻まれた宿命だ。  内藤明は化学的な反応や、光学的な原理によって生成される銀塩写真の極めて即物的なあり方に深い造詣と探究心を持ち制作を行う。内藤の写真に焼きついた深い闇と眩しい光は、印画紙上の銀の粒子が束の間、見る者に呼び起こす幻視でもある。  しかし「いまこの場所で」が「かつてここでない場所で」になろうとも、たとえかつては触れることのできた笑顔が一枚の紙になろうとも、人はある瞬間を留めようとする。ある瞬 […]
2017年2月12日

喜多村みか 写真展「meta」

展覧会概要  100年後、ここに写っている人たちはもういない。もちろん、私もいない。 触知できない何かを感じられることが、写真の、とくに人が写っている写真の力でもあると思っている。写っているはずのない、入り交じった思いや、そこにあったかもしれない物語(あるいはそんなものはない)、残したいというノスタルジックな願い。これらを探してしまうとき、私はなんとも言えない気持ちに襲われて、なにか霊的な力すら感じることがある。そういった、写真の映画的な部分が私は好きだけれど、本当はそうしたものは写っていないとも思っているし、ましてやそのことを証明したいとはこれまであまり考えてこなかった。 蚤の市で目にするような100年前の誰かのポートレイト写真が魅力的であるいちばんの理由は(これまで重々語られている通り)被写体がすでにこの世にいないことだ。だとしたら、私が撮った写真も半ば自動的にその魅力を帯びていくのだろうか。そこに写っているものを超えて、ロラン・バルトの言葉を借りるならば「手に負えないもの」(ロラン・バルト『明るい部屋写真についての覚書』花輪光訳,みすず書房)たちが熟していくこともあるだろうか。つ […]
2017年1月15日

篠田優 写真展「写真へのメモランダム」

展覧会概要  篠田優は日本で活動している写真家です。2013 年の塩竈フォトフェスティバル写真賞大賞を受 賞し、その副賞として 2015 年には写真集「Medium」を発行しました。それに伴い東京を皮切り に、関西や東北、海外での展示活動も精力的に行っています。本展覧会は篠田が運営に関わるオル タナティブスペース Alt_Medium(オルトメディウム)においての開催となります。 本展覧会「写真へのメモランダム」において篠田は自身の手による文章を写真と共に展示します。 篠田は日々の中で写真を撮ると共に、写真についての思考をいくつもの手帳に綴ってきました。常 に写真と言葉の両者を用いて写真への問いを続けてきた篠田にとって、その両者を同じ空間に存在 させることは自然な流れでもありました。篠田はそれについて「よりリアリティのある在り方へと向かう試み」と述べています。 この機会にぜひご高覧ください。 Alt_Medium ===  私の内にあらわれるイメージは何かの姿をもった像(figure)であるように思う。 ときにその像は直接的に現実の存在を参照しないだろう。私は夢の中で誰とも呼べない人、 […]
2016年12月12日

岡江真一郎個展「それはそれは怪しい」

展覧会概要  岡江真一郎のアニメーション作品に明確な始まりと終わりを見出すことは難しい。まるで循環するかのように物語は完結しない。そこに描かれている存在は皆、感情が読み取れない表情をしている。無彩色で、虚構と呼んで突き放すには妙に生々しいその世界からは、場所としての強い個性も見いだすことが難しい。 登場人物たちは何をしようとしているのか、どうしてそんなことをしているのだろうか。その「何故」への答えはどこにも見つからない。覚えやすくどこか少し物悲しいメロディーに歌われる詩もそれを教えてはくれない。 だが、それでいいのだろう。どんな意味があるのかわからないものを繰り返しているのが私たちだ。どこかに答えがあるかもしれない。しかし、ないかもしれない。何となく表情も薄れ、意味も忘れて繰り返す行為がどこにも行き着かなくとも、まあどうでもいい。 Alt_Medium
2016年11月27日

嶋田篤人写真展 「思わぬ壺」

展覧会概要 嶋田は房総半島を中心に撮影し、東京で発表を続ける写真家です。 作者は一見して房総半島と鑑賞者に悟られない被写体を選び撮影します。その写真行為は一枚の写真にその土地を集約しようと試みるものとは異なり、むしろとても断片的なものであるかのように見えます。しかしその断片を丁寧に結びつけることでその土地性にアプローチをかけるのが作品の特徴とも言えるでしょう。 また嶋田による撮影、現像、プリント作業の一貫した正確さから織りなす、モノクロームプリントの豊かな階調もあわせて、どうぞご高覧ください。 === 「思わぬ壺」 房総半島で写真を撮る。私はここで写真を撮るのが好きだ。ここは私の故郷である。実家には倉がある。倉の裏には大きな壺がある。ここに壺が無い記憶は無い。だから昔からここにある。雨粒がひんやりと表面を濡らす。刻一刻とトーンが蓄積され、黒く輝く。黒い光は何処かへの入口のように私を誘う。半島を行く。終わりのある道、雲より低い山、歩いては行けない海。爪を噛み、車を走らせる。考える。この土地で私の写真を問う。それらはただそこにあり続け、だからこそ自由である。 嶋田篤人 === 嶋田篤人は房 […]
2016年10月30日

山口和也  “ Eternal trace ”

展覧会概要 瞬間の彼方には永遠があって、僕はその永遠を描写する。- 山口和也 === -着火したその瞬間、画面の隅々にまで眩い光が駆けめぐる、と作者は語った。特別に作り出された花火によって金属の輝きをもつ支持体の上に一瞬にしてイメージを描き出す。作者は幾度かの経験によって、この手法により形成されるイメージを予測することができるのかもしれない。しかしどれほど経験を積もうとも、作者の「手」が及ばない領域が最後には残るだろう。そこにおいて作者は「あらわれるもの」を待ち望むしかない。決して物の写しとしてのイメージが形成されているわけではない。しかしその光の瞬きの痕跡とも呼べる絵画は、どこかWilliam Henry Fox Talbotが自著に冠した「自然の鉛筆」という言葉を思い起こさせる。 山口和也の「Eternal trace」という一群の作品の中に「Flowers」と名付けられたものがある。花火には欠くことのできない導火線がここでは植物の葉や茎のような姿を見せ、その先にある鮮烈な色彩もまた夜空に咲く大輪のようである。そのイメージに瞬間とエネルギーによって花開いた生のあらわれを見るとき、こ […]