2025年1月7日
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2025年1月7日
——知るということ。それは、取り返しのつかないことである。
「写真を見ている」という状況は、写真を見ながら物事を考えられる唯一の機会である。写真に写る景色の壮大さ、波の繊細さ、空気の奥行き、サイズ感、関係、質感、思いなど。瞬きをすることさえ惜しく、目線を逸らした瞬間から記憶という虚像に覆われていく。慌てて目線を戻しても覆われた部分がめくれることはなく新たな認識で上書きすることしかできない。
さっきまで写真を見ながら考えていた内容は覚えていても「見ていた写真」は記憶の彼方で形を失い、(今再び)「見ている写真」に先ほどの記憶を当てはめてしまう。
このように、見ているものは一瞬のうちに見たものとなり、見たものは一瞬のうちに得体の知り得ないものへと変化していく。そして、我々はこの抽象度でものを見て、他者と共有し、それを考えているのではないだろうか。
もしかすると「そこにあるのは〇〇の写真らしい」という(漠然とした)情報で、十分なのかもしれない。
2025年1月6日
高校1年の夏に鬱病とパニック障害だと診断されてから10年が経た。2024年は社会に参加しようと活動を始めた。
今は就労支援b型や就労支援所を探している。(2024年12月21日時点)
今年は、作業所や就労支援を3か所短期で辞めてしまった。相変わらず続けて通うことができない。
活動開始前、思っていた働くことやその中で人と関わることと現実のギャップに自分の大切な価値感や考えさえも解体されていく感覚がある。そして、自分自身のセルフイメージも解体されブレブレになっている。
空回りばかりであるが、父と向いあってポートレートを撮影や減薬などいろいろなことに挑戦している。今はそうは思えないがこれは分散や崩壊ではなく変化なのだろう。
2025年1月5日
カメラを持ってふらふらと歩いていると、思っているより周りの人々は自分のことなんて視界に入れていないことに気付く。
知らない誰かの風景の一部として漂っているに過ぎない。そう思いながらその風景の中にひっそりと潜んでいるイメージを写真によって露わにする。
写真を通して現実と対面した時、初めてその異質さ、不安定さを知ることがある。
たまたま写り込んでしまった/知らないものが写ってしまったことへの恐怖か?
その感覚に襲われた瞬間、これまで自分が信じていた認識は亀裂が入ったように、突如として頼りないものとなる。
不意打ちで見えていなかったものが見えてしまった瞬間は、幽霊(のようなもの)を見たかもしれない、と心臓が一気に冷えていく感覚と近い。
見ようとしていなかっただけで偏在している。そしてそれに気づく入り口というのは突然、事故のように訪れる。
その時見ているのは己の中の幽霊か?
2025年1月4日
2025年1月3日
2025年1月2日
ものを「置く」「選ぶ」「移動させる」などといった、形の現れ方を変化させるための基礎的な操作に注目し、そうした操作そのものや、一定の操作による結果としての造形の単位を、強調したり反復したりする手法を試みています。
自動車による長距離の移動や遠隔地への滞在を行いながら、一定の指針による造形操作を繰り返した、野外制作を展示します。土地を通過したり土地に滞留したりする私の身体を、いくつかの造形操作によって緩やかに拘束することで、それらが生じました。操作は、多く意識を手元に引き留め、遠景を見ることを許しません。近くを見て辿りながら遠くへ行くと、遠景は、しばしば生活上の連続的な近景として見えました。