2019年11月12日

喜多村みか 写真展「TOPOS」

展覧会概要 喜多村みかは1982年福岡県生まれの写真作家で、2008年東京工芸大学院芸術学研究科メディアアート専攻写真領域を修了。 喜多村は主にスナップショットという技法を使用し、非常に身近でありながら少し距離感がある、どこともいえない世界を切り取ります。その様子は作家自身のというよりは作家の前に広がる風景の身じろぎのようであり、絶え間なく揺らぐ世界の隙を捉えたかのようでもあります。 今回発表される「TOPOS」は「VOCA展2019現代美術の展望─新しい平面の作家たち─」において山峰 潤也氏(水戸芸術館現代美術センター学芸員)より推薦を受け出品され、大原美術館賞を受賞した作品です。本作品で喜多村は、自身が中学生時代を過ごした長崎と、それまで直接的には縁のなかった広島を定期的に通い撮影しています。そのある年、喜多村は長崎でも、広島でもない場所で平和記念式典のテレビ放送の様子を撮影。その写真を後日眺めていたときに感じた”遠くのどこか”を眺める行為について思いを巡らせたことが本作へと繋がります。 喜多村は、今、自身の写真について「すべての場所に言えるのは、そこは何かが起こった後であり、何か […]
2017年2月12日

喜多村みか 写真展「meta」

展覧会概要  100年後、ここに写っている人たちはもういない。もちろん、私もいない。 触知できない何かを感じられることが、写真の、とくに人が写っている写真の力でもあると思っている。写っているはずのない、入り交じった思いや、そこにあったかもしれない物語(あるいはそんなものはない)、残したいというノスタルジックな願い。これらを探してしまうとき、私はなんとも言えない気持ちに襲われて、なにか霊的な力すら感じることがある。そういった、写真の映画的な部分が私は好きだけれど、本当はそうしたものは写っていないとも思っているし、ましてやそのことを証明したいとはこれまであまり考えてこなかった。 蚤の市で目にするような100年前の誰かのポートレイト写真が魅力的であるいちばんの理由は(これまで重々語られている通り)被写体がすでにこの世にいないことだ。だとしたら、私が撮った写真も半ば自動的にその魅力を帯びていくのだろうか。そこに写っているものを超えて、ロラン・バルトの言葉を借りるならば「手に負えないもの」(ロラン・バルト『明るい部屋写真についての覚書』花輪光訳,みすず書房)たちが熟していくこともあるだろうか。つ […]