2018年12月11日

内藤明写真展「once」

展覧会概要 あの時遭遇した情景がフィラメント状の銀による記録として再現される時、あのとき以上に心が掻き立つ。この妙なる調べ。 この感傷。 −内藤明 ===  写されているのは、取り立てて風光明媚や、奇観とも言い難い場所である。自然と人工物を共に見出すようなイメージが殆どではあるが、その在り様に厳密な一貫性があるわけでもない。ある特定の被写体に強い拘りを持つわけでもなく、何らかの概念や思考の形象化でもないとすれば、内藤明はなぜ写真を撮影するのか。  提示されるイメージは、光が濃度をもつ、と形容することが過言とは思えない端正な階調に満ちてはいるが、それは、レンズの前の光を遍く捉え、再現したその結果などではない。画面の内の一部を指し示すように、限られた部分に多く光を留めるそれらイメージは、矩形の均質な平面により自ずと成立しているかのような「風景」というよりも、人間の眼差しに限界づけられた「眺め」と呼ぶことこそ相応しいのではないか。  そうした「眺め」の物化ともいうべき写真は、内藤が繰り返し綴る「衝動」という言葉とどのように結びついているのか。撮影行為のトリガーとなる衝動が何に起因するのかを、 […]
2017年3月14日

内藤明個展「echo」

展覧会概要 レリーズの衝動。途絶えぬ耳鳴りのなかで妙なる響きを捉える。飛来していた光の粒が銀の粒子になるとき、あの時以上に神経を沸き立たせる調べ。長い間次なる響きを求め彷徨っている。この繰返し。 -内藤 明 ===  銀塩写真において、フィルム上に形成される像とは、被写体に触れた光に他ならない。そして、ネガポジ法のプリントプロセスにおいては、そのフィルムを透過した光により印画紙上に像が現れる。印画を見る私たちに届く光は、かつてここではない場所で被写体に触れた光とどのような関係があるのだろうか。さまざまな物質に媒介されながら光を遠くへと届けようとすること。写真の記録性とは、写真自体に深く刻まれた宿命だ。  内藤明は化学的な反応や、光学的な原理によって生成される銀塩写真の極めて即物的なあり方に深い造詣と探究心を持ち制作を行う。内藤の写真に焼きついた深い闇と眩しい光は、印画紙上の銀の粒子が束の間、見る者に呼び起こす幻視でもある。  しかし「いまこの場所で」が「かつてここでない場所で」になろうとも、たとえかつては触れることのできた笑顔が一枚の紙になろうとも、人はある瞬間を留めようとする。ある瞬 […]