2025年12月19日
2025年12月19日
2025年12月17日
本当に守りたいことは何か、そのために何を取捨選択すべきか。私が最も見失いやすく、ゆえに大切にしている問いです。
水性木版を通じてそのテーマに挑んでいます。その時々に現れる、色や形の定まらないイメージ。それを「手法の制約、素材の偶然性、自己判断」のフィルターにかけ濾過します。結果として表れる、緊張感をまとった美しさ。そこに問いへの糸口があるような気がします。
迷った時に立ち返り、次の方角へ進みやすくなるもの。そのような表現を作りたいです。
− 原麻里奈 /
岩絵具を用いた絵と、ドローイングを展示します。
雫のモチーフは、悲しみの象徴として使用します。抽象的な主題を絵という物に換えて、ニュートラルに存在させたい、という意図があります。
ドローイングは日記のような感覚で描いたものです。自分にとって手に取りやすい鉛筆や水彩絵の具、色鉛筆などで描いています。
− 井上美沙
2025年12月10日
今回の写真二人展では、カメラを持ち歩き「目の前の世界の有り様を切り取る」という、至ってシンプルかつ基礎的な撮影行為によって得られた成果物を提示する。
「私がカメラを持つこと」により目の前の光景は私的なフレームである「( )」により断片化され、空白に取り込まれた景色は各々が捉えた世界の様態として浮かび上がる。
奥出は自宅周辺地域の住宅街やビル街へ出向き、具象・抽象問わず目の前に現れる多層的なイメージを写真化する。
山岸は対象と自己の間に生まれる“写真が見た景色“を定着させるために、只々なにかが確信に変わるまで目の前の対象を見つめる。
偶然、作為、現象、記憶、あらゆる思惑と概念を引き連れ、二人の眼とカメラを通して現れた写真という「(様態)」をそこに開こうと思う。
2025年12月9日
展覧会概要 隔たりと現われ 「Le moment où je parle est déjà loin de moi. ──私が話す瞬間は、すでに私から遠く離れている」── ボワロー 私がシャッターを切ると、液晶ファインダーの中で世界は一瞬、静止します。しかし、ファインダーから目を離すと、さきほどまで光を受けてきらめいていた葉は、風に吹かれて遠くへと散っていきます。次の瞬間、足もとの苔を包む柔らかな光に目が触れ、そしてまた、遠くの森へと視線が移っていきます。 人間の知覚は寸断されることなく、ひと続きに流れています。私たちは、知覚される〈いま-ここ〉が時間軸上の一点ではなく、豊かな幅や奥行きをもつことを、直感的に知っています。私がある光景をとらえるために、2枚あるいはそれ以上の枚数を必要とするのは、そのためです。すなわち、「時間はすべてが一挙に与えられるのを妨げ⋯時間は遅延させる、というよりむしろ時間とは遅延である」(ベルクソン)からです。世界はつねに隔たりとして現れるのです。 世界が姿を現し、そしてまた消えていく。その息づかいを目で追う。〈世界〉に参与することを許されていると実感できるわ […]
2025年12月8日
※2026年1月31日(土)はトークイベント開催につき、当日は17時以降展覧会のみの入退場が出来ませんこと予めご了承ください。 展覧会概要 これまで写真を通して“他者と出会うこと”について考えてきました。前作の「接触と沈殿」では、ひとつの部屋を介して、初めて出会う人物のポートレイトを展示しました。親しみと戸惑い、あるいは親密さと距離といった相反する心の作用を風景に託しながら、他者の感触を浮かび上がらせようとしました。 前作から地続きに展開する今回の展示では、写真と言葉の関係に着目します。両者の記録性はともに曖昧なものです。このことを前提に、”他者の感触”について引き続き問うてみたいと思います。 — 誰かと会う約束をする。場所はどこかの部屋がいいけれど、外で会うのも悪くないだろう。わたしたちに必要なのは声が届く距離だから。 交わす言葉のなかで、語りはすでにはじまっている。取るに足らないような話こそ、耳の奥底に沈殿するのはなぜだろう。浮いている髪の毛が陽光で透けるさまが、網膜の上に影を落とす。終わりの時間が来ると、今日はありがとうと言って別れた。 扉が閉まる音がする。あなたの話 […]
2025年12月7日
推しがグループを脱退してから気づけば早5年となっていました。
最終的には心を病んで辞めた推しについて、何が悪かったのか、自分に何が出来たのかをひたすら考えてきた5年だったと思います。
結局のところ消費の関係でしかない私達にとって、いくら考えたところでそんな事は無駄でしかないと、そう思うのですが、でも、諦めの悪い私は、ずっとあぁでもない、こうでもないと考えてきました。
別に正解がわかったから展示をやるわけではありません。
正しいと思って置いた筆が、あぁ間違いだったと気づくのは日常茶飯事で、そんなことの繰り返しで、でも出来るだけ良くあろうと、また画面の中に筆を置く。
そんなふうに、あぁでもない、こうでもないと推しのことを描きました。
とりあえず、今までの私が出した答えをいくつか展示したいと思います。
2025年12月6日
2025年12月5日
20歳の誕生日を目前に、僕は旅に出る準備をしていた。
誰にも頼らず、これから途方もない距離を、自分の足で歩くために。
数日前、デジタルカメラが壊れ、
残ったのは、もう一台のカメラと、限られた数のフィルムだけだった。
気軽にシャッターを切れなくなったことで、
僕は歩きながら、失った景色のことばかりを考えるようになった。
「あとどのくらいで着く?」
「あの街を通り過ぎたから…ちょっと待ってね」
ピーターが地図を広げる。
僕はその場に座り込み、首を回した。
「あぁ。」
そこには、既視感のある新しい空があった
2025年12月3日
現代の建物を構成するガラスという透明な壁は、見る視点によってはその映り込みによって特異な光景を生み出している。特に人々や建物の密度が高い都市空間では、現実か否か曖昧な、あるいは合成によって生みだされたかのような光景が、ところどころにひっそりと映り込んでいる。そのなかで人々は常に移ろい、現(うつつ)を彷徨い、重なりあう。
様々なスケールの建物が乱立した結果遠近法を見いだせなくなった空間に、ガラスの鏡面反射が重なる様子は、建物をスクリーンに垣間見る映像そのものであり、わたしたち人間を含めた都市空間が無自覚にも見られる対象であったことを暗示している。
また反射のある光景はときに、文脈を問わず様々な人々を取り込みつつも決してすべてが馴染むことのない、未整理の猥雑さを残した都市の原始状態を映し出しているかのようでもある。そこでは解釈が行き詰まり、そのままとして受け入れるしかない様相が広がっている。
わたしたちの肉眼は図と地といったレイヤーに分けて物事を理解し捉えようとするが、そのようして世界が意味に分化される以前の光景のなかにこそ、豊かな時間が流れている。そうした光景に遭遇すべく、わたしはカメラアイによってキャプチャを続け、均一化したように見える都市のなかで戯れる。
2025年11月26日
写真に対峙した際、鑑賞者は無意識のうちにイメージに対する自身の記憶をすくいあげ、他者や場所の記憶に想像を巡らせ、「みること」を編んでいく。時には撮影者の記憶や意図を平気で飛び越えていく(写真はそういうことのほうが大半であると思っているし、そうであってほしい)それはその瞬間その時だけに生じていて、同じ光景には二度と会えない。
2025年11月19日
この度鈴木敦子個展「Appear」を開催いたします。鈴木はこれまで記憶の痕跡とその外側にある世界を交差する〝内と外〟の境界から生じる揺らぎを写真撮影を通して作品にしてきました。前作の「lmitation Bijou」では自己と不確かな社会を含む 世界に対しての〝真と偽〟を模索し、その問いかけは変容しながら続いています。
鈴木は自身の作品撮影に対して「撮るというより、その場に立ち会うという感覚に近い...」「そこにあっ た体験を受けとり、ちがうものに変換して記憶に回帰させていくような行為...」と述べています。体験とは人が生きていく中で記憶として積み重なっていく精神と身体のレイヤーであり、その重なりや身体に微かに残る痕跡を通して現在の世界を見つめる事は、鈴木の作品の起点において重要な要素となっています。
今作のタイトルの「Appear」とは〝姿を現す〟同時に〝内なるものが外に表れる〟という意味を持ち、作者の作品に一貫して含まれている記憶と現実世界の狭間のような情景が感じられます。
目の前に確かに在る対象を見つめ、そこから影響を受けた時にシャッターを切ることで、その存在(と不在)を写真に表出する 試みから立ち現れたイメージは、知覚の本質のみならず物事の原初を内包し、意味や情報が瞬時に変換されてしまうこの世界の在り方を問いかけるようでもあります。
2025年11月6日
當麻妙は東京郊外、沖縄、鳥取と移り住み、土地の風景を撮影してきた写真家である。
常にここが自分の場所であるという感覚はなく仮に暮らしているような気持ちのまま、少し引いた視点でその土地の姿を写し取ってきた。
今回の展示は鳥取に暮らすようになってから撮影された作品で構成される。
タイトルを英語表記するのは、過去の作品「Tamagawa」「KUDAKA」同様地名のもつ固有のイメージを薄める効果があり、少し引いたところからみつめた景色であることを示すためである。
2025年10月29日
国道16号線は、24時間絶えず自動車が行き来する道でありながら、人の記憶に残らない無意識の場所として存在している。
国道16号線とは神奈川県横須賀市から千葉県富津市まで、首都圏を囲む総距離約340kmの環状線であり、これはその一部区間である千葉県野田市から八千代市周辺に至るまでの記録となる。
始点の横浜から横須賀、キャンプ座間のある相模原、村上龍の処女作「限りなく透明に近いブルー」の舞台にもなった東京都福生市などがある南西エリアは、敗戦後に米軍の影響を色濃く受けた歴史の蓄積があり、アメリカンカルチャーが根付いている。
今回撮影した北西エリアは、大規模な物流倉庫などの工業地帯が目立ち、建物間の距離が広く、よりモータリゼーションの影響を感じる造りとなっている。延々と平坦な風景が続いたかと思うと、忽然と大型商業施設が砂漠に点在するオアシスのように姿を現す。週末の午後を過ぎると家族連れのボックスカーが、さらに大きなブラックボックスのようなショッピングモールへと吸い込まれていく。店内では膨大な商品群とあらゆるサービスが整然と配置され、消費者の欲望を満たす。外からは内部の様子が見えず、中からも外の世界が見えない完全に閉じられた空間では、消費することだけが唯一の行為となる。
しかし消費空間の中心から離れてみると、再び空漠とした風景が眼前に広がる。無機的な送電鉄塔がそびえ立つ傍らには廃屋や古い住宅地が佇んでいる。生活の痕跡は見られるが、人とすれ違うことは滅多にない。時折高齢者を見かけるが、社交の場が存在しない道をふらつきながら歩く彼らは、目的を見失って路上を彷徨う孤立した存在のように見える。
はるか先にある次の商業地帯までの通過点となる長い線上には、他者との共同性が排除されたコミュニケーション不在の空間が続いている。
2025年10月22日















