2025年9月18日
2025年9月18日
縫い始めたきっかけは描かれたキャンバスのコラージュだった。子どもたちが学期始めに持っていく雑巾やカーテンは作っていたから、ミシンは持っていたし使えなくはなかった。でもそのくらいの技術しかない。
おずおずとミシンを制作に使いだすと、わたしにとってかなり利点が多い手段だと気づいた。
コラージュするとき接着剤で素材を貼り合わせると、再び剥がせばそれぞれが破れたり裂けたりする。しかしミシンで縫い合わせれば、糸さえ切ればあまりお互いが傷つかずに離れる。何度も作品をつくり直しながら制作していくわたしにとって、これはありがたい。
おまけ的に、絵を絵のまま立体にすることも可能になった。モチーフを切り抜いてすこしのふくらみを持たせると、突然モノとして存在しはじめる。おもしろい。立体制作に憧れつつそれが苦手なわたしの折衷策?になるかもしれない発見だった。
今回の展示では、ミシンを用いた過去作品のオリジナルと、この機にリメイクして生まれ変わった作品とを展示いたします。
2025年8月13日
私たちが「自己」と呼ぶものは、果たして単一の時間軸に沿って、ひとつの像として存在しているのだろうか。それとも、それは絶えず分岐し、遅れ、歪みながら、複数の時間と文脈の中に断片化されているのではないだろうか。
本展では、異なる時間を内包する複数の映像装置を用いたインスタレーションを展開します。
それぞれ異なるタイムラグを持つモニターに浮かぶ像は、過去と現在がずれながら重なり合うことで視覚と記憶を揺さぶり、主体の輪郭を微かに曖昧にしていきます。不確かさから立ち上がる知覚の層は、私たちが「自己」と呼ぶものがいかにして構築され、また崩れていくのかを静かに浮かび上がらせます。
2025年8月6日
日々、撮った写真を見返す中で、写真の中にある、痕跡や意思のみとして写る「誰か」の存在が、映っているもの以上に目につくように感じた。
写真そのものには様々な限りがあるが、鑑賞者である私と写真との間には、遥かな広がりがあるのだと思う。
私はその目の前に浮かぶ広がりの中にいる、誰か(あなた)のことを考えていたい。
2025年7月30日
展覧会概要 この度、初展示「CountingSheep」を開催します。本展では、「羊を数える」ような繰り返しの行為を通して、遠く曖昧な感覚をすくい取ろうとしています。 異なる素材や、それぞれの扱ってきた経験をもとに、「触れることで見る」「見ることで触れる」といった感覚に注目しながら制作しました。素材の持つ質感や、行為の中で生まれる細かな変化に目を向けた作品を展示しています。 ぜひ会場でご覧いただけたら幸いです。
2025年7月23日
本展では、「ASSIMILATION(同化)」をテーマに、映像を軸としたインスタレーションを発表します。
映る像が宿す“映像性”──イメージが立ち現れる現象そのもの──に着目し、視覚と知覚の間で生じる動きや移行の瞬間を見つめます。
映像と空間の関係において、複数のメディアを介して像が浮かび上がるとき、それぞれの映像性が同時に響き合い、ときにリピートされることで、どのような視差や重なりが立ち現れるのかを問い直します。
2025年7月16日
意図しない出会いは、視るという欲望を呼び起こす。
その視線の先にある都市のリズムと身体が、知らずに呼応していく。
そんな瞬間の記録。
2025年7月11日
10年ほど前、引っ越しを機に植物を育て始めた。だんだんと種類は増え続け今も続いている。
私にとって植物は身近な存在となり、それ以来、自然に群生する植物にも興味を抱き始めた。
ある夜、壁に這う蔦を見た時に、単なる植物としてではない象徴的なイメージが芽生えた。
それは「ここで生きている」という感覚だ。そして、それは私たちも同じだということに結びついた。
その結びつきの根源を知りたくて、私はそれを身近な自然と、人との関わりの中で見つけていきたいと思った。
旭川と東京。二つの土地で写真を撮った。どちらも私にとって身近な土地だ。
通りすがりの人に声をかけ写真を撮らせてもらう。会話をして関わりを持っていく。
その繰り返しの中で、私の心象はとても明確なものとなっていった。
その土地で生きる人や植物だけでなく、そこに存在する無形化されたものについても考えるようになった。
ポートレート、植物、ランドスケープ。ここに写っている”ありふれたもの”たちが語りかけてくるものは、
「親しみ」と「人との関わり」についてだ。それは、身近でありふれた植物のように寄り添い温もりがある。
さまざまな環境や境遇の中、誰かと関わり触れていくことで「ここで生きている」という結びつきを得るのかもしれない。
撮影を通し、その根源に触れた感覚は得たように思う。
そして、すべては身近な範囲で結びつき、気づかぬ内に満たされていく…。
2025年7月10日
展覧会概要 都市の片隅には、異なる背景や習わしを持つ営みが、ひとつの場所に折り重なっています。日向は、そうした場に宿る秩序を探るように、目の前の風景を淡々と写し取ってきました。本展でも、昨年の展示「Japanese Motels」と同様、日本の風景の一特質を探求することを試みています。 === 街の周縁部には、用途が曖昧な構造物や、仮のまま定着した設備が残されていることがある。倉庫の一角に取りつけられた簡易な屋根、道路に接して並ぶプレハブの店舗、空き地の隅に集められた資材や家具。これらは、あらかじめ設計された景観の一部ではないが、必要に応じて配置され、修繕や改良を繰り返しながら、時間とともに現実的な姿を獲得していく。そこには、既存の制度の中に持ち込まれた、別の生活技術が反映されている。資材の調達、配置の判断、空間の使い方には、その場に根ざした慣習とは異なる論理が見え隠れする。異なる文化的実践が、即席の方法で環境に折り合いをつけながら、徐々に土地に馴染んでいく。 文化の定着は一方向からではなく、複数の流れが交差する中で形成される。適応と維持、混在と乖離は、その過程において同時に現れる現象 […]
2025年7月9日
2025年7月8日
2025年7月7日
展覧会概要 當麻妙は東京郊外、沖縄、鳥取と移り住み、土地の風景を撮影してきた写真家である。常にここが自分の場所であるという感覚はなく仮に暮らしているような気持ちのまま、少し引いた視点でその土地の姿を写し取ってきた。 今回の展示は鳥取に暮らすようになってから撮影された作品で構成される。 タイトルを英語表記するのは、過去の作品「Tamagawa」「KUDAKA」同様地名のもつ固有のイメージを薄める効果があり、少し引いたところからみつめた景色であることを示すためである。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私的な領域が公的なものと認識され、地方の風景を構築している。 生きている里は、動植物と人の営みが共存している場所であり、動植物が凌駕していくのは人が去った場所である。ふと目に入る景色は、あらゆる境界を暗黙のなかに許容し、そこに存在している。 鳥取に暮らすようになり、景色のなかに潜むさまざまな境界を発見する。特に山と里の間、その奥にある、表面からは伺いしれない生と死。昔から生と死が近い場所。鳥取の風景を撮影しながら、これからも継続して境界の姿をみつめていく。 − […]
2025年7月6日
2025年7月5日
2025年7月2日
本展では、とある都市公園についての記録を展示します。現代的な芝生広場や遊具が配置されたこの都市公園は、戦後の都市計画に基づき整備されてきました。一方で、周囲を取り囲む広大な雑木林や各所の構造物には、整備が始まる以前の姿が残されています。
本作の撮影は2015年頃に始まり、その過程で、当初は気づかれていなかったものへと対象を移すことで進められました。タイトルである「開かれた庭」は、自然の景観を模倣し、またはその要素を追求して十八世紀初頭のイギリスで確立された風景式庭園に着想を得ています。*1「記憶を記録する」というテーマからはじまった本作を、かつて壁に囲まれていた庭園が外の自然へと開かれ、新たな様式として成立した過程と重ね合わせることができると考えたからです。
ある場所に身を置き、何かが強く私の注意を惹くとき、それまで「気づかれていなかったもの」が風景として立ち上がってくるように感じています。撮影が「意のままにならないもの」を引き寄せる行為だとしたら、風景の経験とは、後戻りできないかたちで突然やってくる「他者」のようなものなのかもしれません。私の関心は、「気づかれていなかったもの」の想起や、あるいはそのはじまりの瞬間を提示することにあります。
*1 安西信一『イギリス風景式庭園の美学 〈開かれた庭〉のパラドックス』、東京大学出版会、2000年