2026年2月19日
2026年2月19日
20歳の誕生日を目前に、僕は旅に出る準備をしていた。
誰にも頼らず、これから途方もない距離を、自分の足で歩くために。
数日前、デジタルカメラが壊れ、
残ったのは、もう一台のカメラと、限られた数のフィルムだけだった。
気軽にシャッターを切れなくなったことで、
僕は歩きながら、失った景色のことばかりを考えるようになった。
「あとどのくらいで着く?」
「あの街を通り過ぎたから…ちょっと待ってね」
ピーターが地図を広げる。
僕はその場に座り込み、首を回した。
「あぁ。」
そこには、既視感のある新しい空があった
2026年2月19日
たくさんの色、からっぽな心。
カラフルで楽しげな、立体作品、平面作品計7点を展示させていただきます。
世界は、いろんな色でいっぱい。その色の下にはなにがある?
それは言葉であらわせられる?その言葉ってどういう気持ちでつかっているの。
進めば進むほど、そこにはなにもない。とても自由なばしょ。
だから、自由にあそんでください。
2026年2月11日
推しがグループを脱退してから気づけば早5年となっていました。
最終的には心を病んで辞めた推しについて、何が悪かったのか、自分に何が出来たのかをひたすら考えてきた5年だったと思います。
結局のところ消費の関係でしかない私達にとって、いくら考えたところでそんな事は無駄でしかないと、そう思うのですが、でも、諦めの悪い私は、ずっとあぁでもない、こうでもないと考えてきました。
別に正解がわかったから展示をやるわけではありません。
正しいと思って置いた筆が、あぁ間違いだったと気づくのは日常茶飯事で、そんなことの繰り返しで、でも出来るだけ良くあろうと、また画面の中に筆を置く。
そんなふうに、あぁでもない、こうでもないと推しのことを描きました。
とりあえず、今までの私が出した答えをいくつか展示したいと思います。
2026年2月4日
これまで写真を通して“他者と出会うこと”について考えてきました。
前作の「接触と沈殿」では、ひとつの部屋を介して、初めて出会う人物のポートレイトを展示しました。
親しみと戸惑い、あるいは親密さと距離といった相反する心の作用を風景に託しながら、他者の感触を浮かび上がらせようとしました。
前作から地続きに展開する今回の展示では、写真と言葉の関係に着目します。
両者の記録性はともに曖昧なものです。
このことを前提に、”他者の感触”について引き続き問うてみたいと思います。
2026年1月22日
私がシャッターを切ると、液晶ファインダーの中で世界は一瞬、静止します。しかし、ファインダーから目を離すと、さきほどまで光を受けてきらめいていた葉は、風に吹かれて遠くへと散っていきます。次の瞬間、足もとの苔を包む柔らかな光に目が触れ、そしてまた、遠くの森へと視線が移っていきます。
人間の知覚は寸断されることなく、ひと続きに流れています。私たちは、知覚される〈いま-ここ〉が時間軸上の一点ではなく、豊かな幅や奥行きをもつことを、直感的に知っています。私がある光景をとらえるために、2枚あるいはそれ以上の枚数を必要とするのは、そのためです。すなわち、「時間はすべてが一挙に与えられるのを妨げ⋯時間は遅延させる、というよりむしろ時間とは遅延である」(ベルクソン)からです。世界はつねに隔たりとして現れるのです。
世界が姿を現し、そしてまた消えていく。その息づかいを目で追う。〈世界〉に参与することを許されていると実感できるわずかな身振り、それが私にとっての写真なのです。
2026年1月9日
展覧会概要 1枚の庭の写真から連続した定点写真へと変化し、記述が加わり、庭作業の度にひっつく種子も記録として残し始める。 その場に身を浸す当事者だけが受け取る無数の情報について思うとき、シダの葉裏にびっしりと並ぶ胞子を連想する。スワイプで容易く吹き飛ばされるツルツルとした画像の裏に付着する、極私的な実感。 それは当事者の特権として閉じられたものではない。シダの葉裏で胞子のうは破れ、風に乗って飛散する。その多くはどこにも根付かない。
しかしそのうちのいくつかは、誰かの記憶と結びつき、その人の内側にある時系列が攪拌された土壌に着地する。その人にしか見えない像が生まれ、滅多に意識に上らないまま別の時間を生き続けることもある。 ——— この展示は、庭に関するごく個人的な記録を元に構成しています。これらの記録は他者の記憶と結びつき、まったく異なるイメージとして立ち上がる可能性を含んでいます。
2026年1月8日
展覧会概要 「ソフティー・ヘルメット」は、その名の通り柔らかな防具である。 私はこれまで、生身の人間に内在する「脆さ」と、その脆さにあらがおうとする身振りのようなものに関心を持って制作を続けてきた。人は完全に身を守ることはできない。それでもそれぞれの方法で、やわらかな防具のようなものを身につけながら生きているように思う。 本展では、そうした不完全な守りのかたちを手がかりに、人が他者と関わる中で生まれる脆さや、その中で自分を保とうとする感覚について、さまざまな視点から見つめていきたい。
2026年1月7日
この度、中村羽菜 初の個展『caru』を開催いたします。
被写体の私物のみを用いて撮影されたこのポートレートは、
その人の気配を宿した”おばけ”を部屋に立ち上がらせる、被写体不在の"おばけポートレート"です。
本展では、2021年より制作を続けている"顔のないポートレート"シリーズから抜粋した作品を中心に、制作と並行しながら手元に留めてきたフィルム写真もあわせて展示いたします。
・・・
"caru"とは"care"の元となった言葉です。
私はいつでもあなたのことを気にかけているし、
あなたもいつでも私のことを気にかけてください。
2026年1月6日
展覧会概要 ⾵景を主題とした作品による2 名の作家の写真展「街を捉えるひとつの⽅法」を開催いたします。横井るつの新作となる「landschop」は、⾃⾝が⽣活する東京湾岸エリアと2024 年の能登半島地震以後に通っている能登を⾏き来しながら撮影しており、⼟地と⾵景の形成について考察を試みます。⼭内美空の「真夜中の給⽔タンク」は、⽇常⽣活の中に潜む街中の給⽔タンクに⽬を向け、それらを宇宙船に⾒⽴てた物語を展開します。 ⾵景を捉えたこれらの写真は、街を歩き、⾒ることと撮ることを通して、変化し続ける世界とそれに⽬を向ける私たちの存在を意識させます。私たちひとりひとりが持つまなざしを共有する場となり、⾵景や写真表現にとどまらず、⽇々の暮らしや⽬の前に広がる街のこれからを考えることのできる空間となれば幸いです。 企画・キュレーション:三浦晃
2026年1月5日
参考作品詳細 《Japanese Blue −私とあなた−》2024 M100号 和紙、膠、岩絵具、水干絵具 展覧会概要 本展は、ブルーシートを模写した絵画作品によって構成される。本展で扱うのは、現代社会における「自己連続性の断絶」である。ここでいう「自己連続性の断絶」とは、個人が自らの生活がどのような前提や関係の上に成り立っているのかを感覚的に遡ることが困難になっている状態を指す。
2025年12月17日
本当に守りたいことは何か、そのために何を取捨選択すべきか。私が最も見失いやすく、ゆえに大切にしている問いです。
水性木版を通じてそのテーマに挑んでいます。その時々に現れる、色や形の定まらないイメージ。それを「手法の制約、素材の偶然性、自己判断」のフィルターにかけ濾過します。結果として表れる、緊張感をまとった美しさ。そこに問いへの糸口があるような気がします。
迷った時に立ち返り、次の方角へ進みやすくなるもの。そのような表現を作りたいです。
− 原麻里奈 /
岩絵具を用いた絵と、ドローイングを展示します。
雫のモチーフは、悲しみの象徴として使用します。抽象的な主題を絵という物に換えて、ニュートラルに存在させたい、という意図があります。
ドローイングは日記のような感覚で描いたものです。自分にとって手に取りやすい鉛筆や水彩絵の具、色鉛筆などで描いています。
− 井上美沙
2025年12月10日
今回の写真二人展では、カメラを持ち歩き「目の前の世界の有り様を切り取る」という、至ってシンプルかつ基礎的な撮影行為によって得られた成果物を提示する。
「私がカメラを持つこと」により目の前の光景は私的なフレームである「( )」により断片化され、空白に取り込まれた景色は各々が捉えた世界の様態として浮かび上がる。
奥出は自宅周辺地域の住宅街やビル街へ出向き、具象・抽象問わず目の前に現れる多層的なイメージを写真化する。
山岸は対象と自己の間に生まれる“写真が見た景色“を定着させるために、只々なにかが確信に変わるまで目の前の対象を見つめる。
偶然、作為、現象、記憶、あらゆる思惑と概念を引き連れ、二人の眼とカメラを通して現れた写真という「(様態)」をそこに開こうと思う。
2025年12月3日
現代の建物を構成するガラスという透明な壁は、見る視点によってはその映り込みによって特異な光景を生み出している。特に人々や建物の密度が高い都市空間では、現実か否か曖昧な、あるいは合成によって生みだされたかのような光景が、ところどころにひっそりと映り込んでいる。そのなかで人々は常に移ろい、現(うつつ)を彷徨い、重なりあう。
様々なスケールの建物が乱立した結果遠近法を見いだせなくなった空間に、ガラスの鏡面反射が重なる様子は、建物をスクリーンに垣間見る映像そのものであり、わたしたち人間を含めた都市空間が無自覚にも見られる対象であったことを暗示している。
また反射のある光景はときに、文脈を問わず様々な人々を取り込みつつも決してすべてが馴染むことのない、未整理の猥雑さを残した都市の原始状態を映し出しているかのようでもある。そこでは解釈が行き詰まり、そのままとして受け入れるしかない様相が広がっている。
わたしたちの肉眼は図と地といったレイヤーに分けて物事を理解し捉えようとするが、そのようして世界が意味に分化される以前の光景のなかにこそ、豊かな時間が流れている。そうした光景に遭遇すべく、わたしはカメラアイによってキャプチャを続け、均一化したように見える都市のなかで戯れる。
2025年11月26日
写真に対峙した際、鑑賞者は無意識のうちにイメージに対する自身の記憶をすくいあげ、他者や場所の記憶に想像を巡らせ、「みること」を編んでいく。時には撮影者の記憶や意図を平気で飛び越えていく(写真はそういうことのほうが大半であると思っているし、そうであってほしい)それはその瞬間その時だけに生じていて、同じ光景には二度と会えない。















