2024年9月11日
2024年9月11日
自らの手作業の痕跡である陶彫刻を被写体として撮影し、デジタル空間上でまったく別次 元のものへ再構築を試みています。有機素材である土(立体)と無機質なピクセル(平面) の異なるメディウムを往還するプロセスの中で、"触覚をトリガーに身体化された記憶へと" もう一歩踏み入れることはできないだろうか?彫刻を起点に据えたうえで、デジタル写真に よる表現の可能性を提示したいと考えています。
2024年9月4日
地球は、私たち人間の目に静穏(Serenity)に見えるその瞬間でさえ、常に変化している (Dynamism)。大地はゆっくりと動き、風雨によって削られながら、新たな地形を刻み続ける。そしてその仕組みは一部解き明かされているものの、依然として多くの謎が存在する。私たちは謎の球の上で、ときにそれがもたらす災害に翻弄され、ときにそれが生み出す景観に魅了されながら生きている。
今回、私がニュージーランドとオーストラリアを訪れた際に撮影した自然の写真を展示し、さらにそれに関する説明文を地球料学の視点から執筆することで、美術展と博物展の融合を目指した。ニュージーランドの雄大な氷河地形、オーストラリアの壮大な石灰岩地形や古代の姿を残す森林を撮影したこれらの写真は、私たちに自然の美しさを改めて感じさせる。
撮影を通じて、私は地球のダイナミズムを感じずにはいられなかった。写真は時間・空間を切り取り記録する技術だが、その撮影の前後の長い時間、そしてフレーム外に続く広大な空間において、自然は絶えず変化を続けている。地球科学の知見があったからこそ、自然の残した痕跡を読み取り、前後の時間で受けたであろう作用や、どんな広角レンズを使ってもフレームに収まることのないような大きな空間に働く力に想いを馳せることができた。地球科学の視点から説明文を執筆したのは、自然の背後にある現象を知ることが、写真が切り取った時間・空間の外を想像する助けになるだろうと考えたからである。
時間的にも空間的にも人間のスケールを遇かに超えた雄大な自然と、その中を生きる生命の姿をお楽しみいただけたら幸いである。
2024年7月31日
信頼関係と性的合意を前提とした、痛みのための絵画をテーマに制作しています。
特殊なリハビリを通して、モデルの生きる形を描いています。
今回は3年ぶりの個展ということで、新作の絵画を展示します。
2024年7月24日
虚実に孤立 愛する一人
この先だって好きにやる
コズミック・コミック・ガール
まぼろしみたいな Tokyo
ゴースト・シティのダンジョン さまよい
わたしたちは往々にして i し合う
2024年7月17日
コロナ禍から今まで、関東一円を歩き続けている。
茨城県の西部、下妻駅の側の国道沿いで、高校通学時に電車の窓から見ていた景色がふと頭をかすめた。
- 東京湾と曇り空、そして対岸の房総半島
あれから20数年、海岸線には新しいマンションが立ち並び、電車から海はほとんど見えなくなってしまった。
今見ている景色もいずれ無くなり、何かのきっかけで思い出すのかもしれない。
かつて見えていたもの、まだ見えているもの。
見えないのに見える、時のようなもの。
2024年7月10日
エズミユウシ 個展「(不)可視光線 」を開催します。
痕跡・転写・半自動などをキーワードに制作をしているシリーズから 光と影の境界に線を引く様を記録した作品を展示します。
射し込む光をチョークでトレースするだけの単純な行為は しかしその特徴 ―線を引く人間がある場所に居合わせなければならず、線は引かれた瞬間から過去になっていく― によって次第にメタフォリカルな意味を纏うようになりました。
展覧会に合わせて、同シリーズを基にした新作のZINEを刊行します。
2024年7月3日
展覧会概要 日向秀史は、都市や街の風景写真に焦点を置いて制作を続けている写真家です。パンデミック期間中においては、自宅の近所である大久保界隈をくまなく歩いて街の痕跡を探し、これをニュートラルにカメラに収め、京都芸術大学の卒業制作として発表しました。 「Japanese Motels」は、パンデミック後に制作を開始したもので、自動車で移動して被写体を求める点は前作の大久保のシリーズとは異なりますが、淡々と撮影し、風景の本質を追及していくアプローチは共通しています。 === 日本のモーテルは、フリーウェイ沿いに立ち並んでいるアメリカのモーテルとは異なる目的の施設である。その疚しさゆえ、車なしでは行きにくい、人目のつかないひっそりとしたところに多く位置しているが、他方で、客の目につくように、派手な建物・オブジェ、大きな看板・料金表示が目印となっており、陰と陽が共存する建物である。経済成長期に多く建てられたものの、厳格化した法規制や流行の影響を大きく受けた。業態変更の対応を取れず、放置されたような場所に佇んでいる特異な外観のモーテルは、今の日本の一風景を作っているように思える。 本作品は、ニュ […]
2024年6月26日
展覧会概要 私には”良い夢”の条件がある。それは自分の目線、第三者目線、いずれの場合も視界(画角)に好ましい被写体がピタリと収まっていること、良い光があること、土地のにおい・温度をリアルに肌で感じられることである。 今回、展示にあたり8mmシネマ用レンズ「Cine-NIKKOR.C 13mm F1.9」で撮影したシリーズから「ひかり」「現象」「かたち」を軸に写真をセレクトした。 霧に満ちた湖、干潟にゆらぐモニュメント、立ち昇る入道雲…滲んだ窓は内と外の境界をより曖昧にし、いつか見た夢の情景は目の前の写真群のイメージと重なり合う。 現実の体験も夢で見た情景も私の中では過去であり、もう訪れることのない時間という点では、2つにそう大きな違いはないのかもしれない。
2024年6月19日
片柳拓子は、都市におけるモノの存在とその表層をテーマに、作品を制作してきた写真家です。
2021年に開催された「possession」(IG Photo Gallery / 東京)より発表を開始し、今年で4年目を迎えます。
また2023年には毎月一冊ZINEを制作し、写真の組み合わせと切り取られた言葉の関係を考察しました。
本展では片柳が2021年を皮切りに現在も継続する縦位置・カラーで構成された写真群を《possession》シリーズと位置付け、その最新作「reproduction」を展示します。
2024年6月5日
不確実な世の中を歩き続ける為には自分を守る強靭な盾が必要だった。
だが私が手に入れたのは、鏡のように美しくも脆い盾だった。
自分を守る武器でありながら、自分自身の弱さや未熟さやあらゆるものを映し出し、容赦なくそれらを跳ね返してくる。
自分が歩いている平均台のように細く不安定な道は、誰かが用意してくれた安定した広い道ではない。何も存在しない場所に一つだけ置かれた高く細い道は、歩くだけでも恐怖で足がすくむ。だがその周りに幾つも同じ高さの平均台が存在する場所までたどり着けたなら、安定した広い道のように進んでいけるのかもしれない。
自分を取り巻く不条理な現実と、自分自身の未熟さを受け入れながら、いつか辿り着くであろう場所を探して、細く不安定な日常を今日も歩いて征く。
2024年5月22日
パンデミックがあり、その後身近なものに目を向けることが多くなった。幼少期から慣れ親しんできた場所や東京で暮らす身近にあるもの。
自然も建造物も、人々を騒がせる世の出来事にただ無関心でそこに存在している。
知らない土地に入った時のストレンジャーな自分とは違い、私と風景の間にはそれほどの境界線はなく今ここにある自分を実感することができる。
その空気を存分に飲み込み、風景は流れていく時間と私の中で共振し心地よい流れを生み出す。
2024年5月15日
私たちの身の回りのものを取り上げてレンズを通して解剖するObjet(オブジェ)シリーズ。
ものに対して私たちが持っているイメージは記憶とともに構成され一人一人漠然としており、儚く漂う雲のようである。人間の目の視点は非常に動的で、もののイメージは瞬間的な記憶の積層と要素の抽出でできているのではないだろうか。
このシリーズではレンズを通してものに対峙して、ものの持つ新たな一面を探求する。第1作目の卵(2023年1月Alt_Mediumにて展示開催)に引き続き、今回2作目の視点の対象は、人工的な形と不思議な質感、独特の深みをもつ羊羹である。
2024年5月1日
展覧会概要 片岡俊は1984年京都生まれ、2010年より写真家として活動を始めました。その活動の当初より「自然」と「人」の関わり合いに着目した写真作品を制作しています。 本展では、その作品制作の始まりから現在までの月日をかけて手掛けられた、一つの庭を舞台にした写真作品「Life Works」を発表いたします。地面に落ちた種子の一粒から始まる緑の色彩は、発芽の度に場所に変化を及ぼし続け、作者はその変化を手繰り寄せるように写真に撮り続けています。そこには植物のみならず場所に関わる人々の手の跡が予期せぬ形で混ざり合いながら共存していました。深々と満たされた緑の中で連綿と続けられた営み。その傍らで今もなお撮り続けられている本展をぜひご覧ください。 展覧会に合わせて、赤々舎より写真集『Life Works』を刊行いたします。 === 人が植物を求め営み共生すること。人が移り変わり場所が姿を変えること。それはこの場所に限らず幾多の場所で、数え切れないほどに存在しているのだと思える。繰り返され、めぐり流れるものに末路はないのか。庭という限りある空間を見つめることは、私たちが暮らすそのそばに連綿と続く […]
2024年4月17日
「鳥とクジラ」
十月、長崎に住んでいる辻原の所に遊びに行った。
以前訪れたのは7年ほど前の夏になる、その時はライギョ釣りやら何やらをして遊んだ(ライギョは釣れなかった、蒸し暑かった。
また遊びに行きたいと思っていたが、中々機会が無かった。
久しぶりの辻原のアトリエの外に小さな畑が出来ていた、猪に荒らされて大変なこともあったらしい。
辻原の作品を見ながら絵の話をしたり、コーヒーを飲んだり、ギターを弾いてみたり、タバコを吸ったりして過ごした。
辻原が一枚の大きめのキャンバスを出してきた。
「一緒に描いてみない?」
それから三日間ほど一緒に絵を描いた、最初はお互い交代交代で手を入れていき、最後は同時に描いていた。
不思議な時間だった、自分以外の人間が目の前で絵を進めてくれている、楽でいい。
誰かと一緒に一枚の絵を描いたのは初めてだろうか。
美術予備校の頃にデッサンに先生が手を入れるのはカウントするべきだろうか。
学校の文化祭の出し物の為の看板をクラスメイトと描いた気がするが、はっきりとは覚えていない。
幼稚園の頃誰かと一緒に迷路を描いた気がするが、これもはっきりとは覚えていない。
他人の描いている絵というのは、とてもプライベートなもののようで、普通は手が出しづらいし、出してはいけないものの様な気もする。
「私の場所」という区切りの様なものを忘れて、抽象的な色や線、時にはモチーフなどを使ってコミュニケーションをしている様な、非言語的で、原始的な感覚。
その時間が生んだ何か。
長崎から帰り暫くして、二人で絵を描いた時のことを何となく思い出していた
海面を境に、空と海に生きる鳥とクジラの姿が頭に浮かんだ。
理由はよくわからない。