2024年3月20日
2024年3月20日
昔日の色合いを振り返ろうと自宅の押し入れに保管していた印画紙の入った箱を開けてみた。露光に苦労した想いとともに何年ぶりにそれらのプリントを見返していた。
本展覧会ではその見返していた2007年頃からコロナ禍が蔓延する以前の2018年頃までの写真を発表している。この頃は iPhoneやネット流通の台頭によって個々のライフスタイルが大きく変化しようとしている最中で、急速な情報化社会に変貌を遂げようとしている時である。ここ数年における人々の行動、建築、必要とされなくなったあらゆるものは社会の変遷を通じてそれとなく実感する。
新しい時代を生きる中で刻々と変化する日常の現実が日々更新され、またそれらを写真(かけら)として提示することは時代の流れを知覚しながら今日への手がかりとして存在しているのかも知れない。
2024年3月13日
自分の洗濯物の写真を撮るようになった。コロナ禍で生活が制限され視界が定まらない中で、生活の中でごく平凡で見過ごされる狭い風景、写真に撮られてはじめて気がつくようなモチーフに以前よりも目を向けるようになった。
洗濯は日々当たり前に行う家事の一つではあるが、晴れの日に行うそれは私にとって特別な行為に感じられる。陽の光と風を感じる瞬間は心地よく、衣類にはその日一日の時間の経過が蓄積されているように思える。
個人や家の生活様式に強く結びついた私的な存在であるにも関わらず、外に干されて人目にさらされることもある洗濯物は、私的な空間と公的な空間との間に漂うフィルターのようでもある。
洗濯物にはその衣類を洗い、干して、そして近い未来に取りこみにくる誰かの存在が感じられる。風雨にさらされてなお。誰かが生きている軌跡としてそこに洗濯物はある。言うなれば野ざらしの未来とでも形容するような、洗濯物が連想させる人間の生活のたくましさに私は魅了されて撮り続けている。
2024年3月6日
⒈ 臍には多様性に富んだ微生物がいる。 生まれ育った土地にはいない、異国の土地でしか見つかったことのない細菌。本来は海底や火山のような極限状態にある場所で生きているはずのバクテリア。なぜ人の臍で見つかったのかわからないものも数多くあるそうだ。
⒉ 子供の頃罹った病のあと、体に潜んで時折表に顔を見せるウイルス。とっくに忘れてしまった痛みを、神経を焼くようなちりちりとした感覚で思い出させる。
わたしの体のうち、人らしいところは10%しかなく、90%の微細なものとともに体を維持して生きている。体内に潜む不調の原因も、忘却も、揺らぐ原因は多少なりとも私のものではなく、 どこか遠くから、世代を変えながら移り住んできたものの存在で、わたしはここにこうして生きている。この体は地面と等しく微細なものが存在することができる場所である。 遠くどこかに思いを巡らせながら、わたしはわたしの体と、そこに生きている微細なものを写している。
2024年2月28日
展覧会概要 タイトルの「WOVEN」とは、織られた、編み込まれた、という意味です。 私がシャッターを切ると、液晶ファインダーの中で世界は停止します。しかし、ファインダーから目を離すと、私は世界が相変らず持続しているのを見ます。キラキラと光っている葉っぱに目が入ったそのすぐ後に、離れたところにある苔を包む柔らかい光に目がいき、そしてすぐにまた別のところに視線が移る。「瞬間あるいは時間がそれらの現れ方にかかわってくるまで」*1 少し歩き、遠くを見る、近くを見る。私が感じる〈いまここ〉には、時間の持続、空間の広がりや奥行きの心地よさ、多幸感のようなものが含まれています。私の眼はさまざまなものを探索して、点から点へ、ここからむこうへ、壁から壁へ、写真から写真へ、ページからページへ動きます。「私が物に追いつき、物に到達しうるためには、それを〈見る〉だけで十分なのであって、見るということが神経機構の中でどのようにして起こるのかなどということは知らなくてもかまわない」*2 のです。 過ぎ去るものであるからこそ普遍的に存在する、一回的で持続的な不可思議な遠さ。空間と時間の織りなす不可思議な織物として […]
2024年2月21日
展覧会概要 大規模な改装工事が終わったE駅は、雨が降るとプラットホームの至る所に風変わりな染みができるようになった。それはまるで、日頃隠れている異世界が表層に現れたようだった。そこには、いかがわしくも、どこか純粋で無邪気な、得体のしれない奴らが、ぶよぶよじゃりじゃりと蠢いていた。そいつらが眼の前に現れると、ただただ愉快で、その度に写真に収めた。
2024年2月7日
「夏草や兵どもが夢の跡」
旅の始まりは名栗川を遡った娯楽施設(今となってはどこか解らないが)の朽ちた建物。
以来私の撮影は営業を止めたドライブイン(それに近い建物も)を探す旅「私の夢の跡」となった。
− 上條正名
2024年1月24日
スナップを中心としたカラー写真を展示。
タイトル「静かな生活」は大江健三郎の同名小説から拝借したものであり、
また、”静物写真”を意味する「still life」を直訳した言葉でもある。
今回の個展に合わせ、展示作品を収めた写真集「stilllife」を発行する。
2023年12月20日
写真というのは、間接性を本質とするメディアだと思います。写されたものを見て、そこから受け取る情報や感情は覚えていても、現像ないし印刷された像自体は見れば見るほど実体を失い、しばらくすると記憶から霧散してしまう。直接的で堅牢な表面を持つ絵画の像のように、記憶の中で解体されることなくいつまでもあり続けられる強さを持った「かたち」あるイメージを作りたいと思い、制作をしています。
「FOREST」は、東京の住宅街を被写体としたシリーズです。私の生まれ育った家は東京都杉並区の、密集した住宅街にあります。幼い頃は、何の変哲も無いつまらない街並みが、空間的にも時間的にも永遠に続くように感じていました。数年前からなぜかこの風景に不思議な違和感を覚え、撮影を始めたところ、こうした街並みもゆっくりと、しかし確実に変化し続けていること、さらに、そうした変化の積み重ねの果てに今の光景が存在していることを知りました。それらを新たな「かたち」として残す作業を続けています。
「YOSEMITE」は、コロナ禍で自由に旅に出ることができなかった時期に、過去の写真を見返す中で作品として浮上してきたシリーズです。アンセル・アダムスの作品などで有名なアメリカ、サンフランシスコ州にあるヨセミテ国立公園は、そうした既知のイメージを裏切る非常に多様な色彩と形態に満ちており、気付いたら夢中でシャッターを切っていました。それは、「自然」という無限の存在から私という有限な視点でもって「かたち」を見出していく行為でした。
東京の住宅街という人工的環境と、ユネスコの自然遺産でもあるヨセミテ国立公園は、人工対自然という単純な二項対立ではなく、各々の要素を複雑に内包しています。名前や意味といった言語的情報から離れ、色彩や形態といった「かたち」を中心に据えることで、こうした複雑な関係性を視覚化することを試みます。
2023年12月6日
写真家の岩崎美ゆきは東京を中心に活動し、近年は新作による展覧会の開催を着実に重ねています。
本展覧会は2019年の「この海は、泳ぐためではありません」から数えて4回目にあたるAlt_Mediumでの個展となります。
岩崎の作品はデビューより一貫して、直裁に風景を写しとる硬質なストレートフォトグラフィーによって構成されています。
深い被写界深度で撮影された写真は、画面の隅々までピントが合うことにより、かえってそれを見る者の眼差しを画面上に彷徨わせるようです。
また同時に、そのようにして撮られた岩崎の写真には、耳目を集めて特別に名指される土地や景観というよりも、普段には人々が何気なく通過してしまうような光景が写し留められています。
この度発表される写真展「なみまの再会」においても、岩崎は変わらない姿勢で制作に臨んでいます。
岩崎は写真を、単なる事物の写しではなく、見る者の記憶や経験との関係において立ち現れる場のようなものとしてとらえています。
そのとき撮影者と鑑賞者は、分け隔てられることもなく、新鮮にイメージを体験するのです。
平明でありながら、それゆえに言葉しがたい深みを感じさせる作品をこの機会にぜひご覧ください。
2023年11月29日
知覚された世界のなかでは、絶対的なものは存在しない、あるいはあらゆるものが相対的であると考えている。
現実で大きいと認識されるものは必ずしも大きくないし、小さいと認識されるものは必ずしも小さくはない。たとえば、針に糸を通すとき、私がそれを凝視しているあいだ、針の目と糸は私の知覚の大部分を占める。このときの針と糸は、遠いところに連続している山々のなかの一つよりも「大きい」。
私の知覚を捕獲するものは、相対的であると同時に偶然的でもある。
北海道でフィールドワークをしたときのこと。山間を走っていた電車のなか、ある窓際におよそ0.1cm³の空間を占めた小さな蠅ちゃんが、かれの6本足であるさらに小さな水玉を遊んでいた。終点に着くまでに、私はずっとそれを見ていた。蠅ちゃんは知らないだろう、彼と彼の遊戯は、私の全ての目的と計画を超越し、この旅における最も大切な記憶になった。
それらの知覚のなかで遊戯するものは、決して固定したものではない。それらは流れている、常に変化している。
ある山に近づき、山のなかに入ったとき、私の山に対する知覚が拡大される。先ほどの山に対するぼんやりしたイメージのような知覚は、細部が満ちた知覚になる——黒い土の匂いと柔らかさ、ある花の模様と色、蜘蛛の巣、水が流れる音とその上の閃光。私に偶然に知覚された葉の顫えのなか、風は見えるようになる。
2023年11月22日
郊外の市民農園。
立派に育った野菜もあれば、放置され腐った野菜、虫に食われた野菜もある。
育て方によって、様々な野菜の姿がある。
そんな野菜を観察し撮影した写真です。
2023年11月8日
菅泉亜沙子は東京を拠点に活動する写真家です。
本展覧会は2018年以降、Alt_Mediumにおける3回目の個展となります。
菅泉の写真群は特定の被写体や撮影地に捉われることなく、自らに縁を持たない土地を歩き続けることによって生み出されています。
しかし同時に、いくら遠く見知らぬ場所へ移動したとしても自身が既に属している社会規範から逃れらないこともまた、菅泉は作品を語る際には強調しています。
それでもなお、撮影したものたちが、制作を通じて像として浮き上がった時、既知の世界を超えて、新たな視座を拓く兆しとなるような感覚を受けることがあると菅泉は述べています。
地道な歩みが持つ力強さと、瞬く光をとらえる繊細さを併せ持つゼラチンシルバープリントをぜひご高覧ください。
− Alt_Medium
2023年10月4日
この作品は、2014年から2018年まで、わたしの生まれ故郷と各地の果樹園を追いかけた記録である。
わたしは埼玉県郊外の白岡市で生まれ育った。親戚が農業を営み梨園を保有していた。4月から5月にかけて受粉作業や実すぐりを時々手伝った。収穫の季節はいつも夏休みと重なっていて、出荷用の箱を祖母や伯父といっしょに組み立てた記憶がある。
海外に拠点を移し日本を離れていた時期もあったが、2013年に帰国。
日本に戻り最初に撮影をしたのがこの梨園だった。当たり前だった風景がなぜか違ってみえた。果樹が、実がなる樹という存在が、とても神秘的に見えた。
それから日本各地の果樹園に足を運び撮影を続けた。
青森では、りんご農家の主人に、息子が交通事故で亡くなり後継者不在という話を聞いた。瀬戸内海の小さな島で余命半年の高齢男性に出会った。妻に先立たれ自分も癌を患いながら蜜柑を育てていた。この作品を発表するには時間がかかり過ぎた。彼はもうこの世にはいないだろう。
白岡の梨園も2018年に終に閉めることになった。
伐採の当日、目の前で変わってゆく光景にシャッターを切り続けた。樹木を失った土壌はどんどん乾いていく。幹から切り落とされた枝はまだしっかりしているように見えたので、無造作に20本ほど持ち帰り浴槽に水を溜めて枝を浸した。
すると1ヶ月後に蕾がふくらみ始め、季節外れの3月に白い花が咲いた。
わたしは急いで枝を抱えて暗室に入り、最期の花が朽ちゆく瞬間を印画紙に焼き付けた。
2023年9月27日
展覧会概要 生い立ちを知らない絵を引き取り、手を加えた。 絵を木に例えるならば 剪定程度から、大掛かりな伐採、接木、植え替え 種をもらって別の鉢で新たに育てるなど あの手この手を施して、その絵の先を見ようとした。 絵具がひび割れ始めた古い絵も、新鮮な空気と水を吸うと 思わぬ方へ伸びていった。