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2025年4月30日

中村 晃 写真展「continuum」

呼吸。 それは、生命の律動が内と外をつなぐ行為であり、 存在がその場に根を張るためのリズムである。 酸素を取り込み、内なる世界へ送り込み、それを放出して外界と交わる。 吸うことは可能性を迎え入れることであり、吐くことは不要なものを手放すこと。 こうして生命は絶え間なく循環し、静けさと活力の間を行き来している。 酸素は見えないながらも確かな存在感を持ち、 体と心を結ぶ大切な要素として 存在そのものの根源的な営みを象徴している。 近年、大気汚染が進み、ウィルスが蔓延したことで、その透明な世界を曇らせた。 工場からの煙、車の排気ガス、それらが空気に不純物を混ぜ、無色の酸素の清らかさを蝕んでいる。 澄み切った空を仰ぐ機会が減るほどに、私たちは初めてその大切さに気づき始める。特にコロナ禍を経験したことによって、 無意識に行っていた呼吸をするという行為が意識されるようになり、再び酸素の尊さが心に浮かび上がった。 マスク越しの息苦しさの中、酸素がもたらす心と身体の安らぎ。 当たり前に呼吸が出来る幸せ。 必要不可欠である酸素が空気に満ちている幸せ。 それは、私たち人間が永遠に守るべきものであり、日々感謝すべきものである。
2025年4月23日

戸室健介 個展「exhibitions #3」

本シリーズの初期構想、撮影段階で、私はWinograndの写真を意識していました。 視る目や瞬発力の差、使用しているカメラ(僕は中判カメラ、Winograndは35ミリ)なのか、 そもそも構想が無謀だったのか、Winograndの様に画面の『伱間』が緊張感を持つ写真にはならなかった様です。 また、主な被写体に人間や動物が写された事も稀でした。 (人間に関してはテストプリントに2点程ある位です。) 写真を始めた頃、つまり写真への自我が目覚めた頃の影響は抜け無いみたいで、やはり、私の場合は画面の『伱間』を埋める写真になってしまう様です。 初期構想とは違うものにはなりましたが、本展示用のプリントを完成させ俯瞰して見ると、自分の気に入った写真群になっているので、ひとまずは良しとします。 本シリーズ初期にスナップを意識していたので、撮影は手持ちカメラで行っていました。 晴天時は、ISO400でシャッタースピード1/250秒、絞りf/16、曇りの日は、ISO400でシャッタースピード 1/125秒、絞りf/8くらいで撮影します。 以前は違和感を感じなかったのですが、昨年くらいから絞りf/8での被写界深度外のピントが気になって見えるようになりました。 それまでは被写界深度外の少しボケてしまった物も許容できていたのですが、今はそのボケ感がなんとなく許容できない物となっています。 (とはいえ、絞り込んでも多少ボケる箇所も出るのですが) 展示のプリントサイズが11×14と中判カメラにしては小さ目なので、最初はフィルムを増感現像することも考えたのですが、粒子の具合とコントラストの上がり方を考えて増感現像は無しとしました。 また、三脚を使用してしまうと、スナップ撮影時の構図の決まり切らない写真の良さが、(手持ち撮影と三脚使用の違いは明確に写真に出ると思います)無くなってしまいます。 消去法と言う訳でも無いですが、一脚を使いシャッタースピードを1/30まで活用して(場合によっては1/8位まで)絞り込める範囲を拡げる事で、被写界深度外のピントへの違和感をひとまずは解決出来ました。 もしかしたら、以前よりもピントの緊張感は出て来たかも知れません。 さらに棚ぼたですが、今までは露出の関係で撮影対象外だった室内の写真が対象内になった事も良い結果でした。 この1年間も相変わらず開園から入場して撮影して移動するという行為を繰り返していました。 この3年間で100箇所以上の動物園を回りました。 流石に主要な動物園で行くべきところも無くなり、小さな動物園もほぼ網羅してしまいした。 ですので3年の間、動物園を回り撮影し展示して来た行為も、今回でひと区切りになるかも知れません。 ただ、まだ国内に残箇所(小さい動物園です)が少しと、手持ち撮影時に撮影対象外だった室内写真の撮りこぼしがあると思いますので、撮了まではもう少しかかるかと思います。 現在は撮り溜めた写真をまとめる作業に入っています。 まだまだプリントが追いついていなくシリーズの全体像が見えていない状況です。 なるべく早くまとめてしまいたいのですが、もうしばらく時間がかかりそうです。 なんとか1年以内にはお目にかけることが出来ればと願っています。
2025年4月9日

横村葵 個展「出会うは何色」

横村は色面や線で画面を構成し、そのコンポジションそのもの作品にしています。 もともと自身の部屋に飾る目的で作られた作品たち。 調和が取れるまで調整を重ねられた色と構図。 絵を見てくれる方の存在も少し考えつつになりましたが、 基本今も関係性を変えず、部屋で作家とともに過ごしています。 Alt_Mediumでは6年ぶりの個展になります。 大小取り混ぜた作品をぜひ自然光あふれるギャラリーでお楽しみください。
2025年3月26日

「現想世界展」

「現実世界に存在するもの」 「想像から生まれるもの」 2つを掛け合わせて描くところは似ている でも、つかう物も、あらわれる形も違う そんな二人の作品を比べて、感じて、楽しんでいただけたら幸いです
2025年3月19日

米田有甫 個展「ディマ」

 ものを「置く」「選ぶ」「移動させる」などといった、形の現れ方を変化させるための基礎的な操作に注目し、そうした操作そのものや、一定の操作による結果としての造形の単位を、強調したり反復したりする手法を試みています。  自動車による長距離の移動や遠隔地への滞在を行いながら、一定の指針による造形操作を繰り返した、野外制作を展示します。土地を通過したり土地に滞留したりする私の身体を、いくつかの造形操作によって緩やかに拘束することで、それらが生じました。操作は、多く意識を手元に引き留め、遠景を見ることを許しません。近くを見て辿りながら遠くへ行くと、遠景は、しばしば生活上の連続的な近景として見えました。
2025年3月12日

YAMAGUCHI MITSURU 個展「MASSES」

展覧会概要 サラリーマンフォトグラファーである私の作品は、通勤途中をメインに都市の中をうごめく群衆(MASSES)をモチーフとして日常の風景を撮影しているストリートスナップです。 駅やターミナル周辺は多くの通勤客やインバウンドたちが行き交い群衆を肌で感じる空間、群衆分子の一人でもある私はその渦の中で感じるままにシャッターを切っています。そこに映し出された人たちはそれぞれの目的地に向かい表情や人種、姿は十人十色、そして撮った瞬間は二度と出会うことがない景色です。作品を見るあなたには作者も気づかない新たな発見があるかもしれません。現代都市の一瞬の風景を楽しんでいただけたら嬉しいです。
2025年3月5日

波多野祐貴 個展「接触と沈殿」

展覧会概要 いつもの振る舞いを制限され、他者にも容易には会えなくなったことで、その頃のわたしは憂鬱な気持ちを抱えていた。ひとりになれる場所がほしくて、静かな場所の古い家屋の中に小さな部屋を借りた。それはひどく寒い季節が始まる頃の話で、次の寒い季節が来るまで続いた。ここに並ぶのはその部屋を訪れてくれた人物、そして同じ時期に出会った風景と事物のポートレイトである。 部屋の訪問者たちとは初対面で、まずは挨拶を交わし、穏やかな雰囲気の中で撮影が始まる。そこには少しばかりの緊張と居心地の悪さも交じっていただろう。撮影のあいだも色々な話をする。まるで短い物語を聞くかのような時間もあった。しかし誰かのことを思い出そうとする時に思い浮かぶのは、耳底に沈む声の響き、瞬きひとつで移ろう表情の行方、あるいは窓から差し込む光が床の表面に残す、体温にも似た温かさだ。それらはあまりに微細な事柄で、曖昧で、日常生活の中で掻き消されてしまう他者の感触を含んでいる。必ずしも写真に記録されるわけではないそれらが、見る人の中で呼び起こされたら良いと思う。
2025年2月26日

田代つかさ 個展「Ghost, my ghost.」

カメラを持ってふらふらと歩いていると、思っているより周りの人々は自分のことなんて視界に入れていないことに気付く。 知らない誰かの風景の一部として漂っているに過ぎない。そう思いながらその風景の中にひっそりと潜んでいるイメージを写真によって露わにする。 写真を通して現実と対面した時、初めてその異質さ、不安定さを知ることがある。 たまたま写り込んでしまった/知らないものが写ってしまったことへの恐怖か? その感覚に襲われた瞬間、これまで自分が信じていた認識は亀裂が入ったように、突如として頼りないものとなる。 不意打ちで見えていなかったものが見えてしまった瞬間は、幽霊(のようなもの)を見たかもしれない、と心臓が一気に冷えていく感覚と近い。 見ようとしていなかっただけで偏在している。そしてそれに気づく入り口というのは突然、事故のように訪れる。 その時見ているのは己の中の幽霊か?
2025年2月19日

小峰健広 個展「disassemble」

 高校1年の夏に鬱病とパニック障害だと診断されてから10年が経た。2024年は社会に参加しようと活動を始めた。 今は就労支援b型や就労支援所を探している。(2024年12月21日時点) 今年は、作業所や就労支援を3か所短期で辞めてしまった。相変わらず続けて通うことができない。  活動開始前、思っていた働くことやその中で人と関わることと現実のギャップに自分の大切な価値感や考えさえも解体されていく感覚がある。そして、自分自身のセルフイメージも解体されブレブレになっている。  空回りばかりであるが、父と向いあってポートレートを撮影や減薬などいろいろなことに挑戦している。今はそうは思えないがこれは分散や崩壊ではなく変化なのだろう。
2025年2月12日

shimadamasafumi 個展「Archives」

——知るということ。それは、取り返しのつかないことである。 「写真を見ている」という状況は、写真を見ながら物事を考えられる唯一の機会である。写真に写る景色の壮大さ、波の繊細さ、空気の奥行き、サイズ感、関係、質感、思いなど。瞬きをすることさえ惜しく、目線を逸らした瞬間から記憶という虚像に覆われていく。慌てて目線を戻しても覆われた部分がめくれることはなく新たな認識で上書きすることしかできない。 さっきまで写真を見ながら考えていた内容は覚えていても「見ていた写真」は記憶の彼方で形を失い、(今再び)「見ている写真」に先ほどの記憶を当てはめてしまう。  このように、見ているものは一瞬のうちに見たものとなり、見たものは一瞬のうちに得体の知り得ないものへと変化していく。そして、我々はこの抽象度でものを見て、他者と共有し、それを考えているのではないだろうか。  もしかすると「そこにあるのは〇〇の写真らしい」という(漠然とした)情報で、十分なのかもしれない。
2025年1月29日

篠田 優個展「Garden|Medium」

篠田優は東京を中心に展覧会や作品集の出版を精力的におこなっています。写真作品だけにとどまらず、近年はその活動を映像作品の制作や上映へと広げています。 本展覧会「Garden | Medium」に出展される作品の構想は、篠田が2023年に逝去した写真家の飯田鉄から一箱のフィルムを譲り受けたことに端を発します。篠田はそのフィルムを使用して、同じく譲り受けた蔵書や、初めて交わした会話の内容でもあった南房総の土地を撮影しています。大判フィルムの密着印画によって黒い縁取りをもってあらわれるイメージは、生前に飯田が篠田に話した「庭」という写真のあり方を探求するものでもあります。それらを通じて篠田は、作品制作と切り離し難いコンセプトというものを、想いに形式を与える行為として、とらえなおそうと試みているのです。
2024年12月18日

「STROMATOLITE」 

展覧会概要 「ストロマトライト」とは生きた化石である。 全ての始まり、生きた証 「写真」もまた生きた化石である。映し出す今、記憶する昔 化石は過去のものという印象とは裏腹に 今この瞬間も生まれている。私達は過去を残し、今新しいものを生み出していく。いつまでもそうでありたい。
2024年12月11日

SHOKO POP HANGA 「starry night 星降る夜冒険の始まり」

多彩な色や心地よい形、偶然や瞬間に宿る現象。 本当に美しいと思うもの、面白いと思ったことを見つめて描くことは、単純なようでいて難しいことかもしれません。 自由でありたいと思いながらも過度なこだわりや思い込みに捕らわれてしまう、日々生きる中でいかに視点を変えて日常を興味深いものにするか、空想と現実の間に真実がある。