2024年6月26日
2024年6月26日
展覧会概要 私には”良い夢”の条件がある。それは自分の目線、第三者目線、いずれの場合も視界(画角)に好ましい被写体がピタリと収まっていること、良い光があること、土地のにおい・温度をリアルに肌で感じられることである。 今回、展示にあたり8mmシネマ用レンズ「Cine-NIKKOR.C 13mm F1.9」で撮影したシリーズから「ひかり」「現象」「かたち」を軸に写真をセレクトした。 霧に満ちた湖、干潟にゆらぐモニュメント、立ち昇る入道雲…滲んだ窓は内と外の境界をより曖昧にし、いつか見た夢の情景は目の前の写真群のイメージと重なり合う。 現実の体験も夢で見た情景も私の中では過去であり、もう訪れることのない時間という点では、2つにそう大きな違いはないのかもしれない。
2024年6月19日
片柳拓子は、都市におけるモノの存在とその表層をテーマに、作品を制作してきた写真家です。
2021年に開催された「possession」(IG Photo Gallery / 東京)より発表を開始し、今年で4年目を迎えます。
また2023年には毎月一冊ZINEを制作し、写真の組み合わせと切り取られた言葉の関係を考察しました。
本展では片柳が2021年を皮切りに現在も継続する縦位置・カラーで構成された写真群を《possession》シリーズと位置付け、その最新作「reproduction」を展示します。
2024年6月5日
不確実な世の中を歩き続ける為には自分を守る強靭な盾が必要だった。
だが私が手に入れたのは、鏡のように美しくも脆い盾だった。
自分を守る武器でありながら、自分自身の弱さや未熟さやあらゆるものを映し出し、容赦なくそれらを跳ね返してくる。
自分が歩いている平均台のように細く不安定な道は、誰かが用意してくれた安定した広い道ではない。何も存在しない場所に一つだけ置かれた高く細い道は、歩くだけでも恐怖で足がすくむ。だがその周りに幾つも同じ高さの平均台が存在する場所までたどり着けたなら、安定した広い道のように進んでいけるのかもしれない。
自分を取り巻く不条理な現実と、自分自身の未熟さを受け入れながら、いつか辿り着くであろう場所を探して、細く不安定な日常を今日も歩いて征く。
2024年5月22日
パンデミックがあり、その後身近なものに目を向けることが多くなった。幼少期から慣れ親しんできた場所や東京で暮らす身近にあるもの。
自然も建造物も、人々を騒がせる世の出来事にただ無関心でそこに存在している。
知らない土地に入った時のストレンジャーな自分とは違い、私と風景の間にはそれほどの境界線はなく今ここにある自分を実感することができる。
その空気を存分に飲み込み、風景は流れていく時間と私の中で共振し心地よい流れを生み出す。
2024年5月15日
私たちの身の回りのものを取り上げてレンズを通して解剖するObjet(オブジェ)シリーズ。
ものに対して私たちが持っているイメージは記憶とともに構成され一人一人漠然としており、儚く漂う雲のようである。人間の目の視点は非常に動的で、もののイメージは瞬間的な記憶の積層と要素の抽出でできているのではないだろうか。
このシリーズではレンズを通してものに対峙して、ものの持つ新たな一面を探求する。第1作目の卵(2023年1月Alt_Mediumにて展示開催)に引き続き、今回2作目の視点の対象は、人工的な形と不思議な質感、独特の深みをもつ羊羹である。
2024年5月1日
展覧会概要 片岡俊は1984年京都生まれ、2010年より写真家として活動を始めました。その活動の当初より「自然」と「人」の関わり合いに着目した写真作品を制作しています。 本展では、その作品制作の始まりから現在までの月日をかけて手掛けられた、一つの庭を舞台にした写真作品「Life Works」を発表いたします。地面に落ちた種子の一粒から始まる緑の色彩は、発芽の度に場所に変化を及ぼし続け、作者はその変化を手繰り寄せるように写真に撮り続けています。そこには植物のみならず場所に関わる人々の手の跡が予期せぬ形で混ざり合いながら共存していました。深々と満たされた緑の中で連綿と続けられた営み。その傍らで今もなお撮り続けられている本展をぜひご覧ください。 展覧会に合わせて、赤々舎より写真集『Life Works』を刊行いたします。 === 人が植物を求め営み共生すること。人が移り変わり場所が姿を変えること。それはこの場所に限らず幾多の場所で、数え切れないほどに存在しているのだと思える。繰り返され、めぐり流れるものに末路はないのか。庭という限りある空間を見つめることは、私たちが暮らすそのそばに連綿と続く […]
2024年4月17日
「鳥とクジラ」
十月、長崎に住んでいる辻原の所に遊びに行った。
以前訪れたのは7年ほど前の夏になる、その時はライギョ釣りやら何やらをして遊んだ(ライギョは釣れなかった、蒸し暑かった。
また遊びに行きたいと思っていたが、中々機会が無かった。
久しぶりの辻原のアトリエの外に小さな畑が出来ていた、猪に荒らされて大変なこともあったらしい。
辻原の作品を見ながら絵の話をしたり、コーヒーを飲んだり、ギターを弾いてみたり、タバコを吸ったりして過ごした。
辻原が一枚の大きめのキャンバスを出してきた。
「一緒に描いてみない?」
それから三日間ほど一緒に絵を描いた、最初はお互い交代交代で手を入れていき、最後は同時に描いていた。
不思議な時間だった、自分以外の人間が目の前で絵を進めてくれている、楽でいい。
誰かと一緒に一枚の絵を描いたのは初めてだろうか。
美術予備校の頃にデッサンに先生が手を入れるのはカウントするべきだろうか。
学校の文化祭の出し物の為の看板をクラスメイトと描いた気がするが、はっきりとは覚えていない。
幼稚園の頃誰かと一緒に迷路を描いた気がするが、これもはっきりとは覚えていない。
他人の描いている絵というのは、とてもプライベートなもののようで、普通は手が出しづらいし、出してはいけないものの様な気もする。
「私の場所」という区切りの様なものを忘れて、抽象的な色や線、時にはモチーフなどを使ってコミュニケーションをしている様な、非言語的で、原始的な感覚。
その時間が生んだ何か。
長崎から帰り暫くして、二人で絵を描いた時のことを何となく思い出していた
海面を境に、空と海に生きる鳥とクジラの姿が頭に浮かんだ。
理由はよくわからない。
2024年4月3日
展覧会概要 動物園を撮影し始めて2年が過ぎた。 朝の開園と同時に撮影を始めるのだが、その時間に入園するのは 私と同じようにカメラを持っている人達が多いように思う。彼達は入園とともに思い思いの撮影ポイントへと散って行く。 人気が無くなってしまった入園ゲートで、私は行くべき具体的な目的がないので、とりあえず案内看板を眺めて見る。時折どこからか動物の鳴き声が響くのだが、聞きなれない声だからなのか少し気味が悪くもある。 大概の場合道順通りに、太陽の方向を気にしながら「展示」を見て歩く。写真になりそうな場所があればアングルを探して撮影し、また次へと歩いて行く。 繰り返し同じ様な場所を撮影していると、思いがけない風景に出会ったりする事は ほぼ無いままに、1日が終わったりする。 フィルムの現像が終わり、まずはコンタクトシートを作り、気になるカットはテストプリントへ。暗室の中で、10秒ほどの露光を終えた印画紙が現像液の中で段々と像を現す。それは淡いような、まどろっこしい様な2分間。さらにもう1分間定着液の中で印画紙から写真となるのを待つ。 蛍光灯をつけ少しだけ明るくなった部屋で、その写真を定着液から浮 […]
2024年3月20日
昔日の色合いを振り返ろうと自宅の押し入れに保管していた印画紙の入った箱を開けてみた。露光に苦労した想いとともに何年ぶりにそれらのプリントを見返していた。
本展覧会ではその見返していた2007年頃からコロナ禍が蔓延する以前の2018年頃までの写真を発表している。この頃は iPhoneやネット流通の台頭によって個々のライフスタイルが大きく変化しようとしている最中で、急速な情報化社会に変貌を遂げようとしている時である。ここ数年における人々の行動、建築、必要とされなくなったあらゆるものは社会の変遷を通じてそれとなく実感する。
新しい時代を生きる中で刻々と変化する日常の現実が日々更新され、またそれらを写真(かけら)として提示することは時代の流れを知覚しながら今日への手がかりとして存在しているのかも知れない。
2024年3月13日
自分の洗濯物の写真を撮るようになった。コロナ禍で生活が制限され視界が定まらない中で、生活の中でごく平凡で見過ごされる狭い風景、写真に撮られてはじめて気がつくようなモチーフに以前よりも目を向けるようになった。
洗濯は日々当たり前に行う家事の一つではあるが、晴れの日に行うそれは私にとって特別な行為に感じられる。陽の光と風を感じる瞬間は心地よく、衣類にはその日一日の時間の経過が蓄積されているように思える。
個人や家の生活様式に強く結びついた私的な存在であるにも関わらず、外に干されて人目にさらされることもある洗濯物は、私的な空間と公的な空間との間に漂うフィルターのようでもある。
洗濯物にはその衣類を洗い、干して、そして近い未来に取りこみにくる誰かの存在が感じられる。風雨にさらされてなお。誰かが生きている軌跡としてそこに洗濯物はある。言うなれば野ざらしの未来とでも形容するような、洗濯物が連想させる人間の生活のたくましさに私は魅了されて撮り続けている。
2024年3月6日
⒈ 臍には多様性に富んだ微生物がいる。 生まれ育った土地にはいない、異国の土地でしか見つかったことのない細菌。本来は海底や火山のような極限状態にある場所で生きているはずのバクテリア。なぜ人の臍で見つかったのかわからないものも数多くあるそうだ。
⒉ 子供の頃罹った病のあと、体に潜んで時折表に顔を見せるウイルス。とっくに忘れてしまった痛みを、神経を焼くようなちりちりとした感覚で思い出させる。
わたしの体のうち、人らしいところは10%しかなく、90%の微細なものとともに体を維持して生きている。体内に潜む不調の原因も、忘却も、揺らぐ原因は多少なりとも私のものではなく、 どこか遠くから、世代を変えながら移り住んできたものの存在で、わたしはここにこうして生きている。この体は地面と等しく微細なものが存在することができる場所である。 遠くどこかに思いを巡らせながら、わたしはわたしの体と、そこに生きている微細なものを写している。
2024年2月28日
展覧会概要 タイトルの「WOVEN」とは、織られた、編み込まれた、という意味です。 私がシャッターを切ると、液晶ファインダーの中で世界は停止します。しかし、ファインダーから目を離すと、私は世界が相変らず持続しているのを見ます。キラキラと光っている葉っぱに目が入ったそのすぐ後に、離れたところにある苔を包む柔らかい光に目がいき、そしてすぐにまた別のところに視線が移る。「瞬間あるいは時間がそれらの現れ方にかかわってくるまで」*1 少し歩き、遠くを見る、近くを見る。私が感じる〈いまここ〉には、時間の持続、空間の広がりや奥行きの心地よさ、多幸感のようなものが含まれています。私の眼はさまざまなものを探索して、点から点へ、ここからむこうへ、壁から壁へ、写真から写真へ、ページからページへ動きます。「私が物に追いつき、物に到達しうるためには、それを〈見る〉だけで十分なのであって、見るということが神経機構の中でどのようにして起こるのかなどということは知らなくてもかまわない」*2 のです。 過ぎ去るものであるからこそ普遍的に存在する、一回的で持続的な不可思議な遠さ。空間と時間の織りなす不可思議な織物として […]
2024年2月21日
展覧会概要 大規模な改装工事が終わったE駅は、雨が降るとプラットホームの至る所に風変わりな染みができるようになった。それはまるで、日頃隠れている異世界が表層に現れたようだった。そこには、いかがわしくも、どこか純粋で無邪気な、得体のしれない奴らが、ぶよぶよじゃりじゃりと蠢いていた。そいつらが眼の前に現れると、ただただ愉快で、その度に写真に収めた。
2024年2月7日
「夏草や兵どもが夢の跡」
旅の始まりは名栗川を遡った娯楽施設(今となってはどこか解らないが)の朽ちた建物。
以来私の撮影は営業を止めたドライブイン(それに近い建物も)を探す旅「私の夢の跡」となった。
− 上條正名