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2026年6月3日

橋本 晃 個展「Sliding Doors」

ある時、台湾で撮った写真を眺めていたら、「これどこかで見たな」と思い、過去の写真を見返してみた。自分が思っていたのは、京都で撮った写真だった。撮っていた時には「これどこかで見たな」と思わなかったことが不思議に感じられた。 本作:Sliding Doorsでは、異なる時間・場所で撮った写真の中から、そういった既視感、あるいはもっと単純に色やカタチといった要素も含めて、何かしらの結びつきが感じられたものを集めて、提示することにした。なぜ、写真になってからその相似に気がついたのか、それとも、撮っている時点で実は無自覚に過去の景色を意識していたのか。そもそも、他者から見ればそれらは全く似ても似つかないものかもしれない。展示を通して、現実世界と写真、私が見て感じること/他者が見て感じること、その重なりと違いについて、探していければと思う。
2026年5月20日

原 愛花 個展「四角い草原」

本展は、2023 年より制作を続けている“四角い草原”より抜粋したものを展示する。 作品“四角い草原”とは、人による介入がある場所とそうでない場所の間にある空間もしくは変移していく場所に着目し、外来種植物のように“自然と人間の間で浮遊する”存在が曖昧な物体や空間を撮影することで、人間と自然の間を常に移動し続け、“ふるさと”がない自身の立ち位置を表現している。
2026年5月13日

成子祐子 個展「半透明の森に立つ」

首都圏の便利と不便の境界線のような場所で暮らしている。真新しい住宅と地域に根ざした暮らしとが混在する風景が続き、宅地の境目や川沿いには雑木林がひろがる。その周辺を撮影のトレーニングのつもりで歩いた。 生活に近い場所で数年間撮り続けた写真には、思考の軸のようなものが垣間見えた。日常の中で体感した様々なことが、被写体の中に紛れ込んだのだろう。 日々何気なく見たものを、撮影という手段できりとる。その一枚一枚を紡いだものは、言葉のように何かを伝える手段となりうるだろう。 見るという行為はその人の思考と直結している。 何を見て、何を思い、どう存在するのか。一つの方向からのみ物事を捉えようとしたとき、私達の視野は急速に狭まる。目の前にある小さな瞬間に何を見るのか。それは表層に覆われている物事の、深部に近づく限られた手段であるのかもしれない。
2026年5月6日

寺崎珠真 個展「LANDSCAPE PROBE: Interim Report 2024-2025」

昼光となだらかな勾配は歩行を促し、さまざまな事物に視線は彷徨う。 環境によって無意識のうちに眼と足は導かれていく。 眼前を掠めていく認知以前の視野が逃げ去る前にシャッターを切ると、 カメラは瞬時にその観察点への光の配列を記録する。 晴れた日の光の底に立ち現れる風景。 見回すことと見つめること、具体と抽象、風景と写真の間を行き来している。 いつも途方に暮れながら、当てもなく果てもなく探査は続く。
2026年4月22日

藤田紅於 個展「緑、泉、丘、光」

初の個展となる本展では、別々に撮影した2枚の写真を合成した写真作品を展示いたします。 手作業のデジタルコラージュによって制作された細密なイメージを通じて、時間に侵食された事物の姿と、そこに暮らしてきた人々の微かな気配とを浮かび上がらせることに取り組んでいます。 この機会にぜひご高覧ください。
2026年4月8日

本吉映理 個展「echoes」

生まれついた身体に揺らぎを持ちながら、 知覚する意思を手繰り寄せる。 一つずつ選びとり重ねていくその先で、 それぞれの身体を通して輪郭を帯びていく。 何にも依ることのないそのありようは、 言葉になる前の開かれた光景の中にある。
2026年4月1日

鈴木藤成 個展「自己連続性の断絶について」

本展は、ブルーシートを模写した絵画作品によって構成される。 本展で扱うのは、現代社会における「自己連続性の断絶」である。ここでいう「自己連続性の断絶」とは、個人が自らの生活がどのような前提や関係の上に成り立っているのかを感覚的に遡ることが困難になっている状態を指す。
2026年3月25日

「街を捉えるひとつの方法」

⾵景を主題とした作品による2 名の作家の写真展「街を捉えるひとつの⽅法」を開催いたします。 横井るつの新作となる「landschop」は、⾃⾝が⽣活する東京湾岸エリアと2024 年の能登半島地震以後に通っている能登を⾏き来しながら撮影しており、⼟地と⾵景の形成について考察を試みます。⼭内美空の「真夜中の給⽔タンク」は、⽇常⽣活の中に潜む街中の給⽔タンクに⽬を向け、それらを宇宙船に⾒⽴てた物語を展開します。 ⾵景を捉えたこれらの写真は、街を歩き、⾒ることと撮ることを通して、変化し続ける世界とそれに⽬を向ける私たちの存在を意識させます。私たちひとりひとりが持つまなざしを共有する場となり、⾵景や写真表現にとどまらず、⽇々の暮らしや⽬の前に広がる街のこれからを考えることのできる空間となれば幸いです。
2026年3月18日

中村羽菜 個展「caru」

この度、中村羽菜 初の個展『caru』を開催いたします。 被写体の私物のみを用いて撮影されたこのポートレートは、 その人の気配を宿した”おばけ”を部屋に立ち上がらせる、被写体不在の"おばけポートレート"です。 本展では、2021年より制作を続けている"顔のないポートレート"シリーズから抜粋した作品を中心に、制作と並行しながら手元に留めてきたフィルム写真もあわせて展示いたします。 ・・・ "caru"とは"care"の元となった言葉です。 私はいつでもあなたのことを気にかけているし、 あなたもいつでも私のことを気にかけてください。
2026年3月12日

鳥越あかり 個展「ソフティー・ヘルメット」

「ソフティー・ヘルメット」は、その名の通り柔らかな防具である。 私はこれまで、生身の人間に内在する「脆さ」と、その脆さにあらがおうとする身振りのようなものに関心を持って制作を続けてきた。 人は完全に身を守ることはできない。それでもそれぞれの方法で、やわらかな防具のようなものを身につけながら生きているように思う。 本展では、そうした不完全な守りのかたちを手がかりに、人が他者と関わる中で生まれる脆さや、その中で自分を保とうとする感覚について、さまざまな視点から見つめていきたい。
2026年3月4日

松戸ひとみ 個展「私にしか見えない」

1枚の庭の写真から連続した定点写真へと変化し、記述が加わり、庭作業の度にひっつく種子も記録として残し始める。 その場に身を浸す当事者だけが受け取る無数の情報について思うとき、シダの葉裏にびっしりと並ぶ胞子を連想する。 スワイプで容易く吹き飛ばされるツルツルとした画像の裏に付着する、極私的な実感。 それは当事者の特権として閉じられたものではない。シダの葉裏で胞子のうは破れ、風に乗って飛散する。その多くはどこにも根付かない。
 しかしそのうちのいくつかは、誰かの記憶と結びつき、その人の内側にある時系列が攪拌された土壌に着地する。 その人にしか見えない像が生まれ、滅多に意識に上らないまま別の時間を生き続けることもある。
2026年2月25日

高橋恭介 写真展「カリモーチョな空 − In liminality」

20歳の誕生日を目前に、僕は旅に出る準備をしていた。 誰にも頼らず、これから途方もない距離を、自分の足で歩くために。 数日前、デジタルカメラが壊れ、 残ったのは、もう一台のカメラと、限られた数のフィルムだけだった。 気軽にシャッターを切れなくなったことで、 僕は歩きながら、失った景色のことばかりを考えるようになった。 「あとどのくらいで着く?」 「あの街を通り過ぎたから…ちょっと待ってね」 ピーターが地図を広げる。 僕はその場に座り込み、首を回した。 「あぁ。」 そこには、既視感のある新しい空があった
2026年2月19日

横山知さ 個展「七色の虚無の下であそぼう」

たくさんの色、からっぽな心。 カラフルで楽しげな、立体作品、平面作品計7点を展示させていただきます。 世界は、いろんな色でいっぱい。その色の下にはなにがある? それは言葉であらわせられる?その言葉ってどういう気持ちでつかっているの。 進めば進むほど、そこにはなにもない。とても自由なばしょ。 だから、自由にあそんでください。
2026年2月11日

半坂優衣 個展「EUPHORIA」

推しがグループを脱退してから気づけば早5年となっていました。 最終的には心を病んで辞めた推しについて、何が悪かったのか、自分に何が出来たのかをひたすら考えてきた5年だったと思います。 結局のところ消費の関係でしかない私達にとって、いくら考えたところでそんな事は無駄でしかないと、そう思うのですが、でも、諦めの悪い私は、ずっとあぁでもない、こうでもないと考えてきました。 別に正解がわかったから展示をやるわけではありません。 正しいと思って置いた筆が、あぁ間違いだったと気づくのは日常茶飯事で、そんなことの繰り返しで、でも出来るだけ良くあろうと、また画面の中に筆を置く。 そんなふうに、あぁでもない、こうでもないと推しのことを描きました。 とりあえず、今までの私が出した答えをいくつか展示したいと思います。