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2024年6月5日

成子祐子 写真展「鏡の盾と平均台を征く」

不確実な世の中を歩き続ける為には自分を守る強靭な盾が必要だった。 だが私が手に入れたのは、鏡のように美しくも脆い盾だった。 自分を守る武器でありながら、自分自身の弱さや未熟さやあらゆるものを映し出し、容赦なくそれらを跳ね返してくる。 自分が歩いている平均台のように細く不安定な道は、誰かが用意してくれた安定した広い道ではない。何も存在しない場所に一つだけ置かれた高く細い道は、歩くだけでも恐怖で足がすくむ。だがその周りに幾つも同じ高さの平均台が存在する場所までたどり着けたなら、安定した広い道のように進んでいけるのかもしれない。 自分を取り巻く不条理な現実と、自分自身の未熟さを受け入れながら、いつか辿り着くであろう場所を探して、細く不安定な日常を今日も歩いて征く。
2024年5月22日

北原 千恵美 個展「Harmonia」

パンデミックがあり、その後身近なものに目を向けることが多くなった。幼少期から慣れ親しんできた場所や東京で暮らす身近にあるもの。 自然も建造物も、人々を騒がせる世の出来事にただ無関心でそこに存在している。 知らない土地に入った時のストレンジャーな自分とは違い、私と風景の間にはそれほどの境界線はなく今ここにある自分を実感することができる。 その空気を存分に飲み込み、風景は流れていく時間と私の中で共振し心地よい流れを生み出す。
2024年5月15日

村越 慧 個展「Objet series Ⅱ 〜Yokan〜」

私たちの身の回りのものを取り上げてレンズを通して解剖するObjet(オブジェ)シリーズ。 ものに対して私たちが持っているイメージは記憶とともに構成され一人一人漠然としており、儚く漂う雲のようである。人間の目の視点は非常に動的で、もののイメージは瞬間的な記憶の積層と要素の抽出でできているのではないだろうか。 このシリーズではレンズを通してものに対峙して、ものの持つ新たな一面を探求する。第1作目の卵(2023年1月Alt_Mediumにて展示開催)に引き続き、今回2作目の視点の対象は、人工的な形と不思議な質感、独特の深みをもつ羊羹である。
2024年5月1日

片岡俊 個展「Life Works」

展覧会概要 片岡俊は1984年京都生まれ、2010年より写真家として活動を始めました。その活動の当初より「自然」と「人」の関わり合いに着目した写真作品を制作しています。 本展では、その作品制作の始まりから現在までの月日をかけて手掛けられた、一つの庭を舞台にした写真作品「Life Works」を発表いたします。地面に落ちた種子の一粒から始まる緑の色彩は、発芽の度に場所に変化を及ぼし続け、作者はその変化を手繰り寄せるように写真に撮り続けています。そこには植物のみならず場所に関わる人々の手の跡が予期せぬ形で混ざり合いながら共存していました。深々と満たされた緑の中で連綿と続けられた営み。その傍らで今もなお撮り続けられている本展をぜひご覧ください。 展覧会に合わせて、赤々舎より写真集『Life Works』を刊行いたします。 === 人が植物を求め営み共生すること。人が移り変わり場所が姿を変えること。それはこの場所に限らず幾多の場所で、数え切れないほどに存在しているのだと思える。繰り返され、めぐり流れるものに末路はないのか。庭という限りある空間を見つめることは、私たちが暮らすそのそばに連綿と続く […]
2024年4月17日

郷 正助・辻原 周 二人展「鳥とクジラ」

「鳥とクジラ」  十月、長崎に住んでいる辻原の所に遊びに行った。 以前訪れたのは7年ほど前の夏になる、その時はライギョ釣りやら何やらをして遊んだ(ライギョは釣れなかった、蒸し暑かった。 また遊びに行きたいと思っていたが、中々機会が無かった。 久しぶりの辻原のアトリエの外に小さな畑が出来ていた、猪に荒らされて大変なこともあったらしい。 辻原の作品を見ながら絵の話をしたり、コーヒーを飲んだり、ギターを弾いてみたり、タバコを吸ったりして過ごした。 辻原が一枚の大きめのキャンバスを出してきた。 「一緒に描いてみない?」 それから三日間ほど一緒に絵を描いた、最初はお互い交代交代で手を入れていき、最後は同時に描いていた。 不思議な時間だった、自分以外の人間が目の前で絵を進めてくれている、楽でいい。 誰かと一緒に一枚の絵を描いたのは初めてだろうか。 美術予備校の頃にデッサンに先生が手を入れるのはカウントするべきだろうか。 学校の文化祭の出し物の為の看板をクラスメイトと描いた気がするが、はっきりとは覚えていない。 幼稚園の頃誰かと一緒に迷路を描いた気がするが、これもはっきりとは覚えていない。 他人の描いている絵というのは、とてもプライベートなもののようで、普通は手が出しづらいし、出してはいけないものの様な気もする。 「私の場所」という区切りの様なものを忘れて、抽象的な色や線、時にはモチーフなどを使ってコミュニケーションをしている様な、非言語的で、原始的な感覚。 その時間が生んだ何か。  長崎から帰り暫くして、二人で絵を描いた時のことを何となく思い出していた 海面を境に、空と海に生きる鳥とクジラの姿が頭に浮かんだ。 理由はよくわからない。
2024年4月3日

戸室健介 個展「exhibitions #2」

展覧会概要 動物園を撮影し始めて2年が過ぎた。 朝の開園と同時に撮影を始めるのだが、その時間に入園するのは 私と同じようにカメラを持っている人達が多いように思う。彼達は入園とともに思い思いの撮影ポイントへと散って行く。 人気が無くなってしまった入園ゲートで、私は行くべき具体的な目的がないので、とりあえず案内看板を眺めて見る。時折どこからか動物の鳴き声が響くのだが、聞きなれない声だからなのか少し気味が悪くもある。 大概の場合道順通りに、太陽の方向を気にしながら「展示」を見て歩く。写真になりそうな場所があればアングルを探して撮影し、また次へと歩いて行く。 繰り返し同じ様な場所を撮影していると、思いがけない風景に出会ったりする事は ほぼ無いままに、1日が終わったりする。 フィルムの現像が終わり、まずはコンタクトシートを作り、気になるカットはテストプリントへ。暗室の中で、10秒ほどの露光を終えた印画紙が現像液の中で段々と像を現す。それは淡いような、まどろっこしい様な2分間。さらにもう1分間定着液の中で印画紙から写真となるのを待つ。 蛍光灯をつけ少しだけ明るくなった部屋で、その写真を定着液から浮 […]
2024年3月20日

相模智之 写真展「時のかけら 兆候をみる」

 昔日の色合いを振り返ろうと自宅の押し入れに保管していた印画紙の入った箱を開けてみた。露光に苦労した想いとともに何年ぶりにそれらのプリントを見返していた。  本展覧会ではその見返していた2007年頃からコロナ禍が蔓延する以前の2018年頃までの写真を発表している。この頃は iPhoneやネット流通の台頭によって個々のライフスタイルが大きく変化しようとしている最中で、急速な情報化社会に変貌を遂げようとしている時である。ここ数年における人々の行動、建築、必要とされなくなったあらゆるものは社会の変遷を通じてそれとなく実感する。  新しい時代を生きる中で刻々と変化する日常の現実が日々更新され、またそれらを写真(かけら)として提示することは時代の流れを知覚しながら今日への手がかりとして存在しているのかも知れない。
2024年3月13日

小林正彦 個展「Laundry」

自分の洗濯物の写真を撮るようになった。コロナ禍で生活が制限され視界が定まらない中で、生活の中でごく平凡で見過ごされる狭い風景、写真に撮られてはじめて気がつくようなモチーフに以前よりも目を向けるようになった。 洗濯は日々当たり前に行う家事の一つではあるが、晴れの日に行うそれは私にとって特別な行為に感じられる。陽の光と風を感じる瞬間は心地よく、衣類にはその日一日の時間の経過が蓄積されているように思える。 個人や家の生活様式に強く結びついた私的な存在であるにも関わらず、外に干されて人目にさらされることもある洗濯物は、私的な空間と公的な空間との間に漂うフィルターのようでもある。 洗濯物にはその衣類を洗い、干して、そして近い未来に取りこみにくる誰かの存在が感じられる。風雨にさらされてなお。誰かが生きている軌跡としてそこに洗濯物はある。言うなれば野ざらしの未来とでも形容するような、洗濯物が連想させる人間の生活のたくましさに私は魅了されて撮り続けている。
2024年3月6日

砂田紗彩 個展「つきのうみ」

⒈ 臍には多様性に富んだ微生物がいる。 生まれ育った土地にはいない、異国の土地でしか見つかったことのない細菌。本来は海底や火山のような極限状態にある場所で生きているはずのバクテリア。なぜ人の臍で見つかったのかわからないものも数多くあるそうだ。 ⒉ 子供の頃罹った病のあと、体に潜んで時折表に顔を見せるウイルス。とっくに忘れてしまった痛みを、神経を焼くようなちりちりとした感覚で思い出させる。 わたしの体のうち、人らしいところは10%しかなく、90%の微細なものとともに体を維持して生きている。体内に潜む不調の原因も、忘却も、揺らぐ原因は多少なりとも私のものではなく、 どこか遠くから、世代を変えながら移り住んできたものの存在で、わたしはここにこうして生きている。この体は地面と等しく微細なものが存在することができる場所である。 遠くどこかに思いを巡らせながら、わたしはわたしの体と、そこに生きている微細なものを写している。
2024年2月28日

菊地真之 写真展「WOVEN」

展覧会概要  タイトルの「WOVEN」とは、織られた、編み込まれた、という意味です。 私がシャッターを切ると、液晶ファインダーの中で世界は停止します。しかし、ファインダーから目を離すと、私は世界が相変らず持続しているのを見ます。キラキラと光っている葉っぱに目が入ったそのすぐ後に、離れたところにある苔を包む柔らかい光に目がいき、そしてすぐにまた別のところに視線が移る。「瞬間あるいは時間がそれらの現れ方にかかわってくるまで」*1 少し歩き、遠くを見る、近くを見る。私が感じる〈いまここ〉には、時間の持続、空間の広がりや奥行きの心地よさ、多幸感のようなものが含まれています。私の眼はさまざまなものを探索して、点から点へ、ここからむこうへ、壁から壁へ、写真から写真へ、ページからページへ動きます。「私が物に追いつき、物に到達しうるためには、それを〈見る〉だけで十分なのであって、見るということが神経機構の中でどのようにして起こるのかなどということは知らなくてもかまわない」*2 のです。 過ぎ去るものであるからこそ普遍的に存在する、一回的で持続的な不可思議な遠さ。空間と時間の織りなす不可思議な織物として […]
2024年2月21日

沢田勝信 写真展「E駅のプラットホーム」

展覧会概要 大規模な改装工事が終わったE駅は、雨が降るとプラットホームの至る所に風変わりな染みができるようになった。それはまるで、日頃隠れている異世界が表層に現れたようだった。そこには、いかがわしくも、どこか純粋で無邪気な、得体のしれない奴らが、ぶよぶよじゃりじゃりと蠢いていた。そいつらが眼の前に現れると、ただただ愉快で、その度に写真に収めた。
2024年2月7日

上條正名 写真展「夢の跡 − After the Thrill is Gone」

「夏草や兵どもが夢の跡」  旅の始まりは名栗川を遡った娯楽施設(今となってはどこか解らないが)の朽ちた建物。 以来私の撮影は営業を止めたドライブイン(それに近い建物も)を探す旅「私の夢の跡」となった。 − 上條正名
2024年1月24日

藤島茂雄 写真展「静かな生活」

スナップを中心としたカラー写真を展示。 タイトル「静かな生活」は大江健三郎の同名小説から拝借したものであり、 また、”静物写真”を意味する「still life」を直訳した言葉でもある。 今回の個展に合わせ、展示作品を収めた写真集「stilllife」を発行する。
2023年12月20日

松田真生 個展「FOREST/YOSEMITE -かたちを探して-」

写真というのは、間接性を本質とするメディアだと思います。写されたものを見て、そこから受け取る情報や感情は覚えていても、現像ないし印刷された像自体は見れば見るほど実体を失い、しばらくすると記憶から霧散してしまう。直接的で堅牢な表面を持つ絵画の像のように、記憶の中で解体されることなくいつまでもあり続けられる強さを持った「かたち」あるイメージを作りたいと思い、制作をしています。  「FOREST」は、東京の住宅街を被写体としたシリーズです。私の生まれ育った家は東京都杉並区の、密集した住宅街にあります。幼い頃は、何の変哲も無いつまらない街並みが、空間的にも時間的にも永遠に続くように感じていました。数年前からなぜかこの風景に不思議な違和感を覚え、撮影を始めたところ、こうした街並みもゆっくりと、しかし確実に変化し続けていること、さらに、そうした変化の積み重ねの果てに今の光景が存在していることを知りました。それらを新たな「かたち」として残す作業を続けています。  「YOSEMITE」は、コロナ禍で自由に旅に出ることができなかった時期に、過去の写真を見返す中で作品として浮上してきたシリーズです。アンセル・アダムスの作品などで有名なアメリカ、サンフランシスコ州にあるヨセミテ国立公園は、そうした既知のイメージを裏切る非常に多様な色彩と形態に満ちており、気付いたら夢中でシャッターを切っていました。それは、「自然」という無限の存在から私という有限な視点でもって「かたち」を見出していく行為でした。  東京の住宅街という人工的環境と、ユネスコの自然遺産でもあるヨセミテ国立公園は、人工対自然という単純な二項対立ではなく、各々の要素を複雑に内包しています。名前や意味といった言語的情報から離れ、色彩や形態といった「かたち」を中心に据えることで、こうした複雑な関係性を視覚化することを試みます。